聖書 ヨブ記4章1節~7章21節
マルコによる福音書15章33~34節
説教 平和の共同体の心得「不条理のただ中で神に叫ぶ」
牧師になりたてのころ、もう、20年も前になりましょうか、開拓伝道協議会というのに参加させていただきました。会場は神戸。阪神・淡路大震災から数年後のことでした。その中の話し合いで、「苦悩は語ることによって癒される」という牧師がいて、なるほど、そうなのかと思い、その場で自分の苦悩を語り合っていました。すると、ある牧師は、「苦悩は語ることによっては癒されない。生活困窮者には衣食住の保障が必要じゃないか」のような意見を出されました。それはそれでごもっともと思いました。そのような話し合いを今でも覚えています。
実際、自分が苦悩に陥った経験を思い出すと、言葉にもならなく、ただ苦悩の中にうめいているような気がします。私の場合はうつになり、何も食べず、トイレにもしぶしぶやっといくぐらいで、何日も寝込んでしまったように思います。誰かに自分の苦悩を語り得るということは幾分元気な時なのではないのでしょうか。ヨブ記6章2,3節には以下のように記されています。
わたしの苦悩を秤にかけ
わたしを滅ぼそうとするものを すべて天秤に載せるなら
今や、それは海辺の砂よりも重いだろう
わたしは言葉を失うほどだ
ヨブ記のヨブは実際に不条理な苦悩を経験された敬虔な信仰者だったと思います。彼に降りかかった災いは、神とサタンの仕業であったと著者は語り、ヨブには罪は全くないと設定されています。ヨブ自身も自分は神に逆らった覚えはないと思っているのだと思います。だから、見舞いに来た3人の友人とも、神について語り、自分の苦悩についてありのままを語り、本音で語り合えたのではないかと思います。自分が神に対して気まずさがあれば語り得ないと思います。見舞いにきた友も神に対して自分はやましいところはないと思っていたと思います。テマン人エリファズは、神はヨブのような正しい人は必ず祝福するから、それを悟れ、とヨブに言います。ヨブは自分の苦悩の大きさを友に語り、神に死を願います。ここではヨブは神によって災いに合わせられたのだから、ヨブの願いは正しいと読者である私は受け止めます。ヨブへ災いを与えた張本人は神でありますから、神に信頼を置いたり、助けを求めること自体今のところ筋が通りません。
イエスは謂れのない不条理極まる十字架上で「神よ、なぜ、私を見捨てたのか!」と大声で叫ばれました(マルコ15章34節)。不条理極まる苦悩のただ中で絶叫しました。冒頭にもありましたように、私たちは苦悩については、癒されたり、解決されたりする方法を求めます。イエスは癒されようが癒されまいが、解決されようがされまいが、不条理は不条理だと叫べ!そう私たちに伝えているように思えてなりません。その不条理を引き起こした張本人がたとえ我々の最高支配者、唯一の神であってもお構いなしに。
知人の千田流に言えば、これがロックなそうです。ヨブ記もへブライ詩という文学に入るし、イエスの十字架上の叫びも詩篇22編にある冒頭なので文学や芸術、アートと解してもよいのですけどね。不条理には叫びの文学で対抗、ということなのでしょうか?叫んでどうかなる?と思いますが、そこは神秘なる世界、神の業が生じていくのでしょう。
みなさまの祝福を祈ります。