ヨブ記3章1節~26節
マルコによる福音書15章33~34節
説教 平和の共同体の心得「神様、苦しめないでください」

神とサタンの仕業で、無垢で正しい人で、神を畏れ、悪をさけて生きているヨブは財産も家族も健康も失いました。やがてヨブを嘆き始めました。ヨブ記3章はヨブの嘆きの詩とされています。以下に全文を記します。

ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、 言った。

わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。
神が上から顧みることなく
光もこれを輝かすな。
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。
密雲がその上に立ちこめ
昼の暗い影に脅かされよ。
闇がその夜をとらえ
その夜は年の日々に加えられず
月の一日に数えられることのないように。
その夜は、はらむことなく
喜びの声もあがるな。
日に呪いをかける者
レビヤタン(海中の怪物)を呼び起こす力ある者が
その日を呪うがよい。
その日には、夕べの星も光を失い
待ち望んでも光は射さず
曙のまばたきを見ることもないように。
その日が、わたしをみごもるべき腹の戸を閉ざさず
この目から労苦を隠してくれなかったから。

なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き
乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し
憩いを得て眠りについていたであろうに。
今は廃虚となった町々を築いた
地の王や参議らと共に
金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。
なぜわたしは、葬り去られた流産の子
光を見ない子とならなかったのか。
そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ
疲れた者も憩いを得
捕われ人も、共にやすらぎ
追い使う者の声はもう聞こえない。
そこには小さい人も大きい人も共にいて
奴隷も主人から自由になる。

なぜ、労苦する者に光を賜り
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって
死を探し求めているのに。
墓を見いだすことさえできれば
喜び躍り、歓喜するだろうに。
行くべき道が隠されている者の前を
神はなお柵でふさがれる。
日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。
湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。
恐れていたことが起こった
危惧していたことが襲いかかった。
静けさも、やすらぎも失い
憩うこともできず、わたしはわななく。

これには読むに耐えません。これが神とサタンの仕業かと思うと、やめて下さい、と私は思わざるを得ません。こんなことをするのが神なのかと思ってしまいます。

マルコによる福音書には、十字架上でイエスが大声で叫ばれました。「エロイ エロイ レマ サバクタニ」これはイエスの話していたアラム語で「わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのか」(詩篇22章の冒頭)という意味です。
 
これもひどすぎる,神なら救ってくれと私もイエスと共に叫ぶように思います。

あるクリスマスの夕方、私の知り合いの牧師の妻が交通事故で亡くなりました。
なぜ?と問わざるを得ません。

いわれのない苦しみにある時、神よ、苦しめないでください、と言わざるを得ません。神とサタンの仕業ですので、そんなことしないでと私は神に訴えます。

本日の聖書から、不条理な苦しみを経験している人は、それを引き起こした神に「苦しめないでください、助けてください」と訴えていいんだ、いや、訴えなければならいのだ、というメッセージを受け取る者です。

みなさんの祝福をお祈りします。