聖書 ヨブ記11章1節~14章22節(旧約p788)
マルコによる福音書14章32~40節(新約p92)
説教 平和の共同体の心得 「この私こそ、神は救ってくださるべき」
ヨブ記はとても面白いです。神がサタンと組んで無垢で正しいヨブに災いを与える設定となっています。今日の聖書のヨブ記ではヨブは神に財産、家族、健康を奪われ苦難を経験している最中です。ヨブは神に対し、無垢で正しい自分に苦難を与える神は可笑しい、そういう神の元なら自分は死ぬと言い続けて止まないのです。人の不幸は心地よいとはルソーが言った言葉ですが、私も同感します。また、
私の支配者なる神が間違ったことをしているということも面白いです。人の不幸や神の落ち度、そこがとても私の興味を引くところなのです。(こう思う私はなんと心の汚れた者なのでしょう。)
ヨブに友ナアマ人ツォファルは話します。自分は正しいというが、それは違うと語り、こう言います。「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ、あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく恐怖を抱くこともないだろう」(11章13節)。ヨブの信仰に問題があると友は言います。
それに対し、ヨブはそれを認めず、自分は正しい、余計な口を出すな、ツォファルを含め、ここにいる3人は偽りの薬を塗る役立たずの医者だ、神に代わったつもりで不正を語り、欺いて語る、それこそ、神に告発されると痛烈に批判します。まるで、カルト化した宗教指導者を批判しているようです。宗教指導者は信者を神の名を借りて自分の意のごとく操作し、支配する問題を持ち合わせていますから。
ヨブはここで直接神に申し立てると語り、「このわたしこそ、神は救ってくださるべきではないか」(13章16節)と語ります。自分は神から災いを受ける筋合いはない、この災い、苦悩を取り除いて欲しいと訴え続けます。不条理な災いを取り除いて欲しい、これが、ヨブの求める救いであり、それは私たちの、人類の救いの意味なのではないでしょうか。
ヨブのこの救いの叫びと同じような叫びは、十字架に着く前のイエスのゲツセマネの祈りにも見られます。本日の新約聖書のマルコの福音書はこのゲツセマネの祈りのところです。「この杯(十字架)をわたしから取り除いてください」とイエスは神に申し立てます。不条理を取り除いてくださいと祈るのです。神はこの祈りについて沈黙します。といいますか、「この杯をわたしから取り除いてください」は神が人に対しての祈りともとれるのです。ここにわたしたちの生きる意味を見出します。この世は不条理によって出来ている世界ではあるけれど、その不条理をなくすように人は生きてほしい、そう、神様は私たちへ祈っているように、私は受け取る者です。神が沈黙するということは、神が私たちに祈っているからではないでしょうか。ヨブが神に対して、「このわたしこそ、神は救ってくださるべきではないか」と支配者の神に祈ったように、イエスは「このわたしこそ、神は救ってくださるべきではないか」と不条理の中でいきている人間である私たちに祈っているように思われてなりません。取りようによっては、イエスは、私たちがまるで神であるかのように、扱っているのではないでしょうか。イエスは私たちに仕え、十字架に付き死に至るまで支配されてしまっていたのではないですか。不条理をなくすように生きていけますようにと神が私たち人間に向かって祈っているようにわたしには思えてしかたありません。
「このわたしこそ、神は救ってくださるべきではないか」と不条理に苦しむヨブが語り、イエスも同じように語ったように思います。そして、今、その言葉を私たちに向かって語っている人がいるのではないでしょうか。その声に耳を傾けていきたいと思います。
みなさまの祝福をお祈りします。