聖書 サムエル記下9章1~12節
マルコによる福音書2章13~17節
説教 平和の共同体の心得「不完全な者との暮らし」

 東日本大震災は3月11日。教会暦の受難節中に当たります。イエスキリストの受難と重なり、3月11日は益々私の心には忘れられなくなっていくようです。6年経っても仮設住宅に入っている人たちはまだいらっしゃいます。復興住宅ができても、住居環境に馴染まなかったりいろいろ新しい問題が出てきているようです。今年度福島の自治体職員の20代後半から30代半ばの9人の方が自ら命を絶ったというニュースを知りました。被災被害者は受難の時を今歩んでいると思います。
 今日のサムエル記下には足の不自由なメフィポシェト(サウルの孫、ヨナタンの子)がダビデから守られ、食事も共にし、召使も与えられたことが書かれています。至れり尽くせりの待遇です。さらにメフィポシェトには子どもがいて子々孫々と続いて行くのでした。ダビデの生涯ではこの場面が一番幸せそうに思います。
 本日のマルコによる福音書には、イエスが罪人や徴税人(支配されているローマ帝国に収める税を取り立てるユダヤ人の裏切り者とされていた。なりたくない仕事NO1だったらしい)と一緒に食事をすることについて書かれています。ユダヤ教の指導者層のファリサイ派の律法学者が弟子たちに問います。「なぜ、イエスは罪人や徴税人と食事をするのか」と。イエスはそれを聞いて答えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病院である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
 不完全な者同士が暮らしているのが現実ではないでしょうか。聖書では不完全な人々が神に守られて暮らすことを理想としているように思います。メフィポシェトの場合は王ダビデに守られました。力ある者が弱い者を助けながら暮らすという構図がみえます。力の使いどころは弱者と共に生きることだと言っているようです。決して戦力、武力、暴力に使うのではないのです。また、神イエスは罪人を招くためにこの世に来た、といいます。罪人と共に暮らすためだというのです。罪人、それは、神の命令に背く者すべてをいいます。私もそうですし、みなさんもかもしれません。安倍首相も、富や軍備を拡張する人たちもそうでしょう。イエスは彼らをも招いています。そして、もっている力は弱き者、苦しんでいる者、悩んでいる者のために使えと語っているように私には思われてなりません。
この受難節の時、我々の持っている力をどこに使うべきか考えてまいりましょう。不完全な者でありますから、力の使いどころを間違えてしまっているのです。決して戦力や武力や暴力に使いませんよう、周りをみて近くに力を貸してほしいという人がいましたら、力になりましょう。そういう生活がこの世での最も幸せな暮らしなのではないかと思っています。
みなさまの祝福を祈ります。