聖書 サムエル記下6章1~24節(旧約p488)
   マタイによる福音書5章17~20節(新約p7) 
説教 平和の共同体の心得「十戒や律法を守る」
 
 旧約聖書の歴史部分の多くがバビロニア捕囚時前後に編集されてたと言われています。イスラエルの国のお先真っ暗な時、彼らは自分の国の歴史(事実)を顧みる手法で彼らのアイデンティティー(神の民であるという)を確認し、希望を持っていったのだと思います。これは、偉く科学的であると思われませんか?彼らは今後の希望を過去の事実をまとめ上げることによりおそらく発見し、方針を立てて行ったのですから。

 今日のサムエル記下はペリシテ人に奪われた神の箱(十戒の入った箱)エルレムから15キロくらい離れた場所にありました。十戒はイスラエルの民に与えられた神の守るべき言葉。これがイスラエルの民の特徴とされたわけです。イスラエルの民と言えば、十戒を与えられた民、十戒を守る民、十戒と共にある民ともいえると思います。つまり、十戒は彼らのアイデンティーを形作る基本であったと思われます。その十戒が入っている神の箱をダビデの町エルサレムに置くことで、名実ともにエルサレムを首都とした、神の民イスラエル王国が誕生することになるのです。本日の聖書の個所は、神の箱の移動中の出来事です。神の箱ははじめは牛に引かせた車で運んでいました。途中、牛がよろめいたので、ウザという人が、落としてはならないと思ったのでしょう、神の箱を押さえました。この時、「ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の傍らで死んだ(7節)」と聖書には書かれています。神の箱など神聖なものに触ると死を招くことが民数記4章に書かれていますが、そのことがここで現れたのでしょうか?驚くべき恐ろしい神です。ダビデも驚き、恐れ、一旦、運ぶのを止め、エルサレムにいるオベト・エドムという異教のペリシテ人の家に神の箱を置いたのでした。ペリシテ人の一家は、はた迷惑だったことでしょう。ところが、この一家と財産のすべてを主は祝福しておられたのです(12節)。なんとも予想外。しかし、これが神の本質でしょう。私は、神の箱運搬中にウザは緊張のあまり、心臓発作(持病だったのでは?)か何か病気で突然死んだのだと思います。周囲はびっくりしてそれを天罰だと解釈したのだろうと思います。そして、あえてペリシテ人の家に神の箱を置いて祝福されたという言い伝えを聖書に入れることで、神の本質は無差別な祝福であるということを編集者は伝えていると私は思いました。

 その後、神の箱は無事エルサレムに入ってきました。ダビデは喜び、ここで裸踊りみたいになってしまったようです。それを見ていた妻ミカルはダビデを軽蔑し、ダビデに「空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように裸になった」と蔑みました。その後、ダビデとミカルの間は冷めきっていき、ダビデ家族の不和の予兆を感じる出来事 となりました。

 ここで私は、エルサレムを首都としたことを神は喜ばれていないということをも暗に聖書編集者は示していると思うようになりました。それが、神の箱をエルサレムへ運ぶ途中のウザの死であり、エルサレムにいるペリシテ人の祝福、そして、神の箱エルサレム到着後のダビデと妻ミカエル冷えていく関係に示されているのだと思います。そもそもエルサレムはエブス人の地でした。今でいうパレスチナ人の地だったのです。そこをダビデは攻略、侵略したのです。まず、ここから十戒違反。それに加え、十戒の入っている箱をエルサレムに置いて、イスラエル王国を完成させようなんて、汝殺すなの入っている神の箱を侵略した地に持ってきて自分たちの国の象徴とするなんてもってのほかだと思う、聖書編集者がここの編集に関わっていたんだろうなあと思ったりしました。 

さて、本日のマタイによる福音書では「イエスが来たのは律法を完成するため」だといいます。十戒はじめ律法を全部守れと言います。それしか言わないのです。律法は守るためにあるのであって、王国の象徴や国家統制のために使うのではないということをイエスのメッセージから受け取るものです。

第2次世界大戦後、イスラエル国家を樹立したり、エルサレムをイスラエルの首都としたりするのは本日の聖書的からみて間違っているのではないでしょうか?ユダヤ人やキリスト者とは十戒や律法を守ることによって特徴付けられる人々のことをいうのではないでしょうか?十戒や律法を守っている人々が弱にユダヤ人でありキリスト者であり、神から選ばれた人と考えていいのだと思います。

みなさまの祝福を祈ります。