聖書 サムエル記下3章6節~3章39節 ヨハネによる福音書13章21~30節 説教 平和の共同体の心得「裏切りに遭う」 今日は裏切りに遭うというテーマでお話をさせていただきます。今日のサムエル記には寝返ったアブネルのことが書かれています。アブネルというイスラエルの軍の司令官は、自分の立てた王のイシュ・ポシェトを裏切り、ダビデ側につこうとします。ダビデは了解しますが、部下のヨアブは弟の仇としてアブネルを殺害しました。ダビデはヨアブの単独行動も裏切り行為と思ったようで、ヨアブらに対して「自分の手に余る。悪をなす者には主ご自身がその悪に報いますように(サムエル記下3:39)」と言っています。ここではダビデもヨアブに対して、上司で部下を導くということを裏切っているとも言えるようです(ダビデはバト・シェバを得るため夫ウリアを敢えて危険な戦地に赴かせ殺害しました。これも、王としては裏切り行為です)。この章は同じ民族内でのユダの王ダビデとその家臣ヨアブ、イスラエルの王イシュ・ポシェトとその家臣アブネルのそれぞれ強者の思惑が錯綜する現実が描かれているようでみんなの心境が不安ではなかったかと思われます。 本日のヨハネによる福音書には、ユダの裏切りの場面が書かれています。イエスの弟子の裏切りです。ユダはイエスを祭司長に引き渡しお金を得るということをしました。それを知っていたイエスは弟子みんなで一緒に食事をします。最後の晩餐をするのです。裏切者は出ていけ、裏切者はいらないとかは言わないのです。「しようとしていることを今すぐしなさい」と言うのです。 政治の世界では裏切りが付き物です。日本の時代劇でよく見られる戦国時代裏切ることがあったようです。織田信長は側近の明智光秀に裏切られ、豊臣秀吉は徳川家康に裏切られたとも捉えることができます。最近では小泉政権の時の郵政民営化での自民党からの造反や離党も政治的裏切りでもありましょう。身近になれば配偶者やカップルの浮気なども裏切りということになりましょう。 内村鑑三にはたくさん弟子が入っては殆どが離れていき、多くの人から裏切られたとも思えます。それについて内村は、「自分は弟子になれとは言ったことはない。みんな弟子にしてくれと言って弟子になる者だ。彼らは自分を先生と呼ぶが、彼らは自分から学ぼうとしない。彼らは、自分の考えていることを認めて欲しいと思っているだけだ」と手厳しいことを語っています。裏切りにはさおれなりの理由があることも確かでしょうが、社会人として成功するには約束を守ることが重要とされます。守らないと信用を失うものです。裏切ったというレッテルを貼られ、制裁を受けることもあり、社会の中で暮らしにくくなります。 聖書を見ても、現実の生活をみても、自分を肯定してもらいたいという、ある意味ご利益宗教的に暮らしているのが人間なのではないでしょうか?「汝愛せよ」という神の言葉を聞いても、「アーメン」と言って済ましている、そういうこともある意味裏切り行為なのではないでしょうか。私たちは神や人に対して裏切り、また、自分自身も裏切りに遭ってもいる物ではないでしょうか? イエスは、これらの裏切りをそのまま受け入れ赦しているようです。イエスがローマ軍に捕まるや否や弟子たちは一人残らず裏切ります。 イエスは裏切りに対し制裁はしません。普段と同じようにみんなで食事をしました。これは平和な情景です。こうしてみますと、もしかしてイエスは最後の晩餐でこう言いたかったのではないでしょうか?「わたしは君たちに裏切られて十字架につく。だけど、私はあなた方と一緒に食事がしたい」なんとも複雑な気持ちでの食事ではないでしょうか。このときイエスは「心を騒がせ」(ヨハネ13:21)話したのですから。 自己中心的な人々で構成されている現代社会。裏切りも日常茶飯事でしょう。しかし、それでも私たちは共に食事をするよう(つまり愛し合うよう)イエスは自ら示しているのではないでしょうか。そこは、すっきりとしない、複雑な気持ちが生じる場かもしれません。それでも、もし裏切りに制裁や報復をなしたなら、もっと、ひどいことになるのではないでしょうか。裏切者を赦し、一緒に食事をする(愛し合う)。このような忍耐のいる平和も、自己中心的な現在社会で殺傷を含む戦争をせずに継続するには必要なのだと思います。できることなら信頼し合って共に食事をしていきたいですけれども、それはいずれ神がなさってくださると信じていくことにしましょう。 みなさまの祝福を祈ります。