聖書 サムエル記下21章1~15節
   ローマの信徒への手紙5章12節~21節
説教 平和の共同体の心得「民族を超えた神の支配」

 神の支配は民族を超えてなされるものでることを今日のサムエル記下から読み取ることができます。イスラエルの民のサウルがカナンの原住民のギブオン人を殺害した罪を、神が問う場面がでてきています。「ダビデの世に、3年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある(サムエル記下21:1)」と聖書に記されているではありませんか。十戒がここでは適応されていると思われます。

 旧約聖書でも新約聖書でも神の支配は民族を超えて及ぼされることがところどころに書かれています。だいたいアダムとイブが人類の始まりとされていますから、人類はみな親戚関係になります。イスラエル民族の始祖アブラハムの出身はチグリス川とユーフラテス川の間あたりのカルディア地方のウルというところでした。ここにはバビロニアが出来て、イスラエルの民は戦いに負け、捕囚されるところです。エジプトとの関係も深く、イスラエルとは行ったり来たりの関係でした。アブラハムは飢饉の時エジプトに逃れ、助けられますし、曾孫のヨセフはエジプトの王の右腕となりエジプトの支配階級になります。時は経、イスラエルの民はエジプト側の抑圧に苦しむようになり、出エジプトし、カナンの地方にイスラエルの王国を建てますが、新バビロニアに滅ぼされ、約50年バビロビアの捕囚民となりました。その後、アケメネス朝ペルシャの王キュロス王によってバビロニアは滅ぼされ、捕囚の民の解放がなされます。預言者イザヤはこのキュロス王を「主が油注がれた人」とさえ語るのです。キュロスはイスラエルの民ではありません。ヨナ書にあっては、ヨナはいやいやながら異国のアッシリアのニネべに行って神の言葉を述べ、悔い改めたニネべの民を主が救う場面が述べられています。新約聖書にあってはイエスの誕生を発見し、礼拝したのが東方の国の占星術師であったとか、敵を愛せ、とか、神は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである、という個所などもあり、民族を超えることはもちろん人間であるということだけで神の影響下にあるということが伺えます。本日のローマ信徒への手紙では、「そこで、一人(アダム)の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人(イエス)の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです(18節)」「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです(19節)」「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちのイエス・キリストを通して永遠の命に導くのです(21節)」とあります。

 万人が神の支配下にあるという万人救済の信条は私の信条でもあり、私の指導牧師の信条でもありました。少数ですが、万人救済の信条を表した指導的なキリスト者は古くは4世紀ころのカッパドキアのグレゴリオスなどが知られており、20世紀ではカールバルト、日本人の内村鑑三もその一人のようです。決して主流ではありませんが、細々と続いている信条です。信仰告白して洗礼式を経た者だけが救われているのではありません。万人が救われ永遠の命を与えられているのだという信仰から、この世を生きていこうとするのが私たちの立場であると思います。伝道は救いに気づいてもらうこととなります。

 だから、不可能と思えるような、「敵を愛せ」や「罪を赦せ」という神の言葉にも従おう、平和実現に尽力しようという気持ちにもなるのです。

 本日は、私の救い(天国に入れること)に関する信条についてのお話となりまして失礼しました。みなさまの救いに関する信条はいかがなものでしょうか?信仰告白して水の洗礼式に預かった者だけが救われるのでしょうか?

 みなさまの祝福を祈ります。