サムエル記下20章1~26節、エフェソの信徒への手紙2章14
節~22節
説教 平和の共同体の心得「隔ての壁を取り壊す」
アメリカのトランプさんはメキシコからの不法移民の入国を防ぐために国境に壁を作りました。中国の万里の頂上も敵国の侵入を防ぐものだったようです。これらの壁は人と人とを隔てるものです。今日の説教題にある「隔ての壁」とは人と人とを隔てることで、差別や偏見、憎しみ、ねたみや嫉みなど人を排除することを現わしている言葉でもあります。
本日のサムエル記下には、「隔ての壁」が様々描かれているように思います(サムエル記だけではなく旧約聖書には人と人との隔ての壁による諸問題が描かれているとも思われます)。ダビデ王に対して不満をもつ、シェバという同じイスラエル民族のベニヤミン人がダビデに反逆し、角笛を吹いて言います。「我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕へ帰れ」というのです。イスラエルの人々は、ユダの人々をいてダビデから離れていきます。ここに「隔ての壁」が生まれていくようです。ダビデ側の身内にも確執がありました。シェバを追うときダビデはマアサというダビデの甥を軍の司令官にします。しかし、有能なのはヨアブ(これもダビデの甥)です。ヨアブはダビデの息子アブサロムの反逆の時にアブサロムの命を奪ったためダビデからは嫌がられていたようで司令官には命じられなかったのです(これも「隔ての壁」)。しかも、マアサはアブサロム側の司令官だったのです。マアサはイスラエル軍をまとめることが出来なかったようです(これも「隔ての壁」)。変わって、司令官に命じられたのがことにあろう、ヨアブの弟アビシャイでした。ヨアブは弟に従わなくてはなりません。ヨアブの胸中はいかがな者だったのでしょう。しかし、軍師ヨアブは冷静。マアサを暗殺し、もっとも犠牲者の少ない方法でシェバの首を手に入れます。シェバはシェバでダビデに反旗を翻したはよいものの組織力はなく、最後は知恵ある女の手にかかってその首を取られ(「隔ての壁」)、ヨアブに渡されました。ヨアブはそのあとダビデの司令官に任命されました。ダビデがやっとヨアブの軍師としての才覚を認めたのでしょう。それからダビデのそばめ10人に対するダビデの対応が「隔ての壁」のように思います。聖書を引用しますと以下のようになります。「ダビデはエルサレムの王宮に戻ると、家を守るために残した10人のそばめを集め、監視付きの家に入れた。彼はそばめの面倒はみたが、彼女のところには入ることはなかった。彼女たちは死ぬまで閉じ込められ、やもめのような生活を送った(サムエル記下20:3)」これも隔ての壁をダビデがそばめに対して作ったことになるのではなかと私は思います。
さて、本日のエフェソの信徒への手紙ではこの「隔ての壁」が取り壊されたということが書かれています。聖書の個所を引用しますと以下のようになります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。2つのものを一つにし、ご自分の肉(十字架)において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。双方を御自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェソ2:14-16)」これは大変なことを書いています。
現実の生活ではメキシコの壁や万里の長城のような壁ではなくとも、君子危うきに近寄らず、程度のことは誰でもしていると思います。こういうのも「隔ての壁」ということではないでしょうか。ある程度人間関係では距離は保っていた方が平和にくらせるということでもありましょう。また、お互い守るべきルールを作ってルールに違反したら罰則を与えるという方法で暮らすのが平和の実現に繋がるというのは誰しもが納得しうることなのではないでしょうか。それは人には敵意が生じることもあり、それが人間の性であるからと認めているからでしょう。
ところが、本日のエフェソの信徒の手紙ではそういうことが吹っ飛んでしまっているではありませんか。イエスの十字架で「敵意」がなくなった、双方が新しい人に作り上げられて平和がキリストによって実現された、と過去形で言い切っているのです。これはとんでもなこいことです。北朝鮮の金正恩もアメリカのトランプもすでにイエスキリストの十字架によって新しい人間に作りかえられて平和を実現していると、敵意もなくなってしまっていると。「うそだ、信じられない」と思いますが、聖書には確かにそう書いてあります。
わたしは本日のエフェソ信徒への手紙を読み、感動を覚えてお腹が締め付けられる思いです。イエスによって隔ての壁はすでに取り壊されたのなら、イエスを主と信じる私の中にある隔ての壁は取り壊すことはできるように思えてなりません。わたしだけでなく、みなさまにもその希望が与えられているように思います。そして、この世は平和に向かって進んでいくという大きなの希望も与えらました。
みなさまの祝福を祈ります。