サムエル記下11章1節~12章25節
エフェソの信徒への手紙6章10~20節
説教 平和の共同体の心得「悪と戦う」

 世の中には物の捉え方が一風変わった人がいるようで、自分の今ある境遇を親や周囲の人のせいにしたり、平気でうそをついたり、自分の都合のよいように人を利用したり、時に激しい衝動性や攻撃性を示すこともあります。こういう方で周囲に迷惑をかけたり、自分自身に苦痛を生じる人たちを精神科ではパーソナリティー障碍と呼ぶそうです。そういう人の中には、最近では津久井やまゆり園の殺傷事件を起こした植松聖、元名古屋大生殺人事件を起こした大内万里亜があげられます。連続殺人事件や通り魔殺人事件、レイプや奇異に感じる殺人事件やそれに関連する事件はパーソナリティー(人格)障碍と呼ばれる精神状態の人々の場合があるようです。テロや戦争もある種の知的に優れたパーソナリリティー障碍のような攻撃性がないと出来ないと思います。殺人や破壊行動を行う人々がこの世に存在する理由は、パーソナリティー障碍の人々が存在するからではないかと思いたくなります。パーソナリティー障碍がなぜ生じるかはまだ分かっていないようです。周囲から当たらず触らずの状態で社会の中に暮らしているのかもしれません。
 
 本日のサムエル記下ですが、王ダビデは、ウリアの妻バトシェバと姦淫し、子を宿し、夫ウリアを敢えて危険な戦地へ送り、殺害させた出来事が記されています。この出来事は教会に通っている人なら結構知っていることです。この出来事はアンモン人の都市ラバへの出陣がなされている最中に起こったことでした。ダビデは預言者ナタンによってその罪を認めます。神はその罰として、ダビデの家庭に悪を働く者が起こることとバトシェバとダビデの間に出来た息子が死ぬことを、ナタンを通して告げます。ダビデは息子が生まれて弱っていく最中、断食し、神から赦しを請いますが、生まれて7日後息子が死ぬや否や断食を止め、身を洗って香油を塗り、衣を着替え、主の家に行って礼拝をし、宮殿に戻り、食事をしました。家臣はその行動を見て、不思議に思い、どうしてそう切り替えられるのかとダビデに尋ねました。ダビデは「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐み、子を生かしてくれるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった。断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところへ行く。しかし、あの子がわたしのところに戻ってくることはない。」と答えました。そして、ダビデはバト・シェバを慰め、彼女のところに行って、床を共にしました。バドシェバはソロモンを産むことになりました。そして、ダビデ王はラバの地を占領しました。
 
 こうしてみるとダビデもかなりパーソナリティーに問題があったのではないかと思います。バト・シェバをウリアから奪って平静を装い(装わなくても平静だったのかも)、ナタンからその罰としてバト・シェバとの間に出来た子が死ぬと聞いて、断食して助かるように祈り、子が死ぬとその死を特に悼むわけでもなし、バト・シェバとの間にソロモンを儲けるという行動はちょっとウリアの死や自分の子に対して無頓着すぎるように思います。この時、ダビデは王として所有欲や支配欲という悪に心が奪われ、そのためなら手段は選ばず、人が死のうと憐れまずいるようなパーソナリーティー障碍となっていたのではないかと私は思ったりしています。

 本日のエフェソの信徒への手紙には「悪と戦え」と勧めています。悪と戦うというのは血肉を相手にするのではなく、悪魔の策略、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にすると言っています。どう戦うかと言いますと、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい。どのようなときも聖霊に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:15-18)とあります。この個所を私なり分かり易く言い換えますと「真理や正義や平和に自ら生き、信仰によって救いに預かり、神の言葉を判断基準、行動基準とし、主イエスの名によって祈り、願い、主の導きによって歩んでいる方々のために祈り続ける」ということになりましょう。悪との戦い方は人に対抗するのではなく、祈りによるということでしょう。ここは明らかに反戦思想の現れです。核の抑止力などはならず者が自国以外の国の為政者ということを前提として人へ向けられています。血肉に向けられています。しかし、悪との戦いにおいて、聖書は人に対して戦えとは言わないのです。あくまで父と子と聖霊の神に頼り、平和であるようにと祈り続けることが、悪と戦う事になり、勝利を納められる結果となると示しているように私には思われます。

 悪との戦い。攻撃性のある人間は戦い好きなのではないでしょうか?殺人や破壊行動を「悪」との戦いに用いることができたら、どんなに平和になることかと思います。そういえば聖職者にもパーソナリティー障碍がいるという研究者もいるようです。破壊願望は悪への破壊へと用いるように、とりあえず聖職者でもある私も気をつけてまいりましょう。自分の攻撃性は「悪と戦う」祈りのために用いるように。

みなさまの祝福を祈ります。