サムエル記上21章1~42節、 マルコによる福音書2章23~28節 説教 平和の共同体の心得 「生きるための配慮」 本日のサムエル記上にはサウル王に命を狙われ、追われるダビデが、生き延びていく出来事が描かれています。祭司アヒメレクのところに行って、パンを求めます。そこには祭司しか食べることができないパンしかありませんでしたが、「女を遠ざけているなら差し上げます(サムエル記上21章5節)」といいます。身が清いなら差し上げられるというのです(レビ記15章16-18節には性交渉で1日汚れることが記されています)。ダビデと供は、身が清かったので食料にありつけました。ダビデはそれからこのアヒメレクから武器を求め、巨人ゴリアトの剣を手にしました(ダビデは以前ゴリアトを石1つで倒しました。この武器を持つことで次に向かうガドの国ではより命が危険にさらされるという状況を聖書編集者は設定しているように思います)。アヒメレクのところにはサウルの家臣がいたのではペリシテ人の国ガド(ゴリアトの故郷)に入りました。しかし、ダビデはそこでダビデであると疑われてしまいます。ダビデはガドの王ラキシュを非常に恐れ、ある行動にでます。気が狂ったように見せかけたのです。髭によだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりしました。ガドの王ラキシュは言います。「見てみろ。この男は気が狂っている。わたしのもとに気が狂った者が不足しているとでもいうのか。わたしの前で狂態を見せようとして連れてきたのか。この男を私の家に入れようというのか」(古代世界では気の狂った者は超自然的な力に取りつかれた者とみなされ神聖な畏敬から害を加えることがはばかられていたとのこと)。ダビデはそこを追放されることで九死に一生を得ました。 本日のマルコ福音書には、安息日に麦の穂を摘んでいるイエスたちに当時民衆の指導的立場にあった主流派のファリサイ派の人々が「なぜ、安息日にしてはならないことをするのか?」と言い迫る場面が描かれています。イエスは言います。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、祭司のほかには誰も食べてはならないパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と。そして、さらに言います。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と。 以上のことから、ダビデは本来規定では食べられないパンを与えられ、気の狂ったふりをし追放されるということで生き延びていけたこと、イエスたちも安息日の規定を破り、麦の穂を摘んで、生きる糧としての食料を得ることができたことが描かれているのだと思います。このように聖書では、神は、選んだ人を人が生きていけるようにその時その時の状況を鑑みていろいろな配慮をなさることを示されているように私は捉えます。大切なことは命。主が与えた命はこの世の何をおいても守られるべきであるというメッセージを本日の聖書から受け止めました。 みなさまの祝福を祈ります。