サムエル記上4章1~21節、ヨハネによる福音書8章31~38節
題:平和の共同体の心得「真理はわたしたちを自由にする」
「自由に生きたい」と誰もが思うのではないでしょうか。ただ、他人に迷惑をかけたり、欲望のままに勝手気ままに生きることには罪悪感を感じてしまい、私の経験上、それは自由とは言えないです。不自由です。
施設に行くと毎日、私に「今日何やるの」と自分のすることを聞いてくる50代の人がいます。IQ23とかの方なのですが、高齢化して病気がちの家族から離され、施設に預けられました。降り絵とかシール貼りとか体操とか歌とかゲームとか歩け歩け運動を余暇活動として私が担当しやっています。50も過ぎた私も含めた二人で毎日こんなことをやっていていいのだろうか?と私は思い悩むのですが、その人は実に生き生きして楽しそうなのです。忙しい職員たちなので私のようにじっくりゆっくりかかわる人もいないからなかもしれませんが、私が来るのを待っていて、朝、会うや否や「今日何するの?」とあいさつ代わりに言って来る。もう、それがここ10年くらい続いていて日増しに激しさを増すようでプレッシャーとさえなっています。しかし、その人にとってはやりたいこと、自由な活動なのです。わたしはそれに誘われてしかたなくお付き合いしているような感じでした。私にとっては不自由です。なぜ、その人のために自分は不自由を強いられなければならないのか。そういう問題も付きまとっています。
自由について、日本国憲法では保障されています。13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。自由であることが尊重されるという素晴らしい憲法だと改めて思います。
また、哲学者で自由な人で最近、ディオゲネスという人がいることを知りました(廣石望訳中『都市と宗教』無教会研修所講義より)。紀元前336年、アレクサンドロス大王がコリントスに将軍として訪れたとき、ディオゲネスが挨拶に来なかったので、大王の方から会いに行ったそうです。ディオゲネスは、日向ぼっこをしていました。大勢の供を連れたアレクサンドロス大王が挨拶をして、何か希望はないかと聞くと、「あなたがそこに立たれると日陰になるからどいてください」とだけ言ったとのこと。帰途、大王は「私がもしアレクサンドロスでなかったらディオゲネスになりたい」と言ったそうです(ウィキペディアより)。
そういうことも重なって自由について聖書はどういっているかを今日の個所から伺い知ることを試みました。
本日のサムエル記には神の箱(十戒が入っている)による威力(災い)が描かれています。イスラエル民側にあった場合は不正なことをした祭司たちホフニとピネハスの死が描かれています。イスラエルの敵のペリシテ人側に神の箱が盗まれ、彼らの神ダゴン(半人半漁の偶像で海の神か?)の神殿に置かれました時は、ダゴンの偶像は倒れて手や首がバラバラになり胴体だけがゴロッと地面にうつ伏せになっていたとのこと。そして、ペリシテ側では、神の箱のあるところいたるところで人々に災難が襲い、はれ物が生じました。ペリシテ人たちは神の箱が恐ろしくなり、最後には神の箱を元々あった場所に返すことになったというお話(おそらくフィクション的言い伝え)です。ここで意味していることは、神様の自由ということです。イスラエルの民であろうと他宗教の民であろうと神様のなさることは神の意志次第。一方的に決まってしまい、人種、国、その他人間のあらゆる条件とは無関係に働くということではないでしょうか。まさしく神は自由。最強の自由を行使できる方であるということを示していると私は解釈します。
そして本日のヨハネによる福音書8章32「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉を語られます。真理とは「イエス」のことでもあり、本日のサムエル記から考えますと「十戒を守ることが人の幸福になる」というとでもあるというように私は思っています。イエスが我々を自由にする、あるいは十戒を守ることが我々を自由にするということを聖書は語っているように私は思えました。無理があるように思われる方もありますでしょう。どうぞ、反論をくださいませ。
さて、このように聖書を読んでまいりまして、冒頭で上げたIQ23の方「今日何するの?」の問いは、「今日はあなたは自由になんでもできますが、何をしますか?」という問いに聞こえてきました。しかも、イエスからの問いにです。喜んでお付き合いします。私も自由に楽しませていただきます。
皆様の祝福、自由な暮らしをお祈りいたします。
友人や学校じつ、地域社会のから自由でありたい、正しくは家族や齎す支配的苦痛、友人や学校、職場、地域社会がもたらす支配的苦痛から逃げたいということいです。自由とは抑圧からの解放であると思っています。人は一人では生きていけない存在と言われていますから、多かれ少なかれ、支援されたり支援したりギブアンドテイクの関係にしかあり得ないことも確かだと思います。支援と支配とは表裏一体と成り得ることでもあると思います。従って、生身の人間が生きていく現実にはある程度の抑圧があるのだと思わざるを得ません。それゆえ、憲法などで基本的人権の尊重、法の下の平等など、人間の性を規制する文言が組み込まれていることにも、人間は、放っておくと不当に抑圧する人間であるということを証明しているように思います。
包括的自由権と法の下の平等
まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権(13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。また、14条では法の下の平等が定められる。同条2項は貴族制度の禁止と栄典に伴う特権付与の禁止を定める。同条のほか、24条では両性の平等が、44条では選挙人資格などの平等が定められている。
精神的自由
精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。
経済的自由
経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。
人身の自由
人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権(37条)、自己負罪拒否特権(38条、黙秘権)、刑罰不遡及(39条)、二重の危険の禁止(一事不再理、39条)など被告人の権利がある。
大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律によらなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。
なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である、* 人身保護規則 (昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること) をする者を、公務員・公的機関だけに限定していない。
人は自由であることを求めてよいのですが、それを勝手気ままであると社会的支配者は、断罪し、自由人を抑圧し、排除さえします。
ディオゲネスの自由
ディオゲネス(英: Diogenes、希:Διογένης、紀元前412年? - 紀元前323年)は古代ギリシアの哲学者。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。シノペ生れ。シノペのディオゲネスとも。
犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、「犬のディオゲネス」と言われた。また、大樽を住処にしていたので「樽のディオゲネス」とも言われた。
紀元前336年、アレクサンドロス大王がコリントスに将軍として訪れたとき、ディオゲネスが挨拶に来なかったので、大王の方から会いに行った。ディオゲネスは、体育場の隅にいて日向ぼっこをしていた。大勢の供を連れたアレクサンドロス大王が挨拶をして、何か希望はないかと聞くと、「あなたがそこに立たれると日陰になるからどいてください」とだけ言った。帰途、大王は「私がもしアレクサンドロスでなかったらディオゲネスになりたい」と言った。
壽子さんの自由
神の自由
パロディー化されたダゴンの神との比較
真理はあななたちを自由にする。
と意外なことを自由を求める私に、私たちに、示すのです。