聖書 サムエル記上2章27節~36節、マルコによる福音書3章31節~35節
説教 平和の共同体の心得「イエスの共同体」

平和の共同体の心得を探ろうとして旧約聖書から学びを続けていますが、私には十戒が重要であるように思われます。一戒は「わたし」(エジプトの国、奴隷の家から導き出した神)以外神があってはならない。二戒は偶像礼拝の禁止。三戒はみだりに神の名をとなえるな。ということですが、これら3つの戒めを私なりに解釈しますと、「苦しみや抑圧から自由にしてくれる(例えば、エジプトの苦難から救い出した)神がいることを信じる、それ以外は信じる神ではない。例えば、五穀豊穣の神は人が信じるべき神ではない。神というものは苦難からの解放(自由、救い、死に向かわない生)にしか知ることができず、信じることができない。神はどうだこうだとみだりに言ったとしても、抑圧的苦難から解放されるという経験がなければ神を知ることはできない。」となります。四戒安息日を心に留め、聖別せよ。五戒父母を敬え。六戒殺すな。七戒姦淫するな。八戒盗むな。九戒偽証するな。十戒隣人の物を欲しいと思うな。
人が平和に生きるには私は十戒がとても重要だと考えています。自分自身もこれに従っていこうとして暮らしていますが、これに反した場合は罰が悪いです。
今日のサムエル記上には、祭司エリの2人の息子(祭司)が主を知ろうとしなかったため、2人の息子は死に、エリの家は絶えるということが書かれています。主に捧げられた最上のものを自分の物にしたり、幕屋(移動式の神殿、今でいうなら教会のようなところと思われます)の入り口で仕える女たちと床を共にするなど欲望のままに過ごしていたようです。主に従わない者は絶たれるという厳しさが描かれています。命まで奪うのはちょっとと思います。こういうところは疑問に思ってしまうところです。教育して回心させたとか、悔い改めさせたとかあってもいいのに、ここは容赦しません。これでは私の命もないと思われます。しかし、そういうふとどきな祭司の代わりに主に忠実に仕えるサムエルを立たせるということに繋がっていきます。
本日のマルコによる福音書になりますと、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3章35節)となり、神に服従する共同体が家族に匹敵するくらい重要だということが書かれています。
聖書は、神への服従を私たちに強要しているように思います。旧約聖書では私たちを脅迫までさせながら、神に従え、とでもいいたいようです。なぜでしょう?そうまで言うのですから、何かがあると思わざるを得ません。今のところ私は神に従う共同体は平和の主イエスの共同体であり、平和を実現できる共同体であろうと思っています。神に従うのはこの世の平和のためと思っています。

みなさまの祝福をお祈りします。今日のは何か物足りなくてすみません。