聖書 ルツ記4章1節~10節
エペソの信徒への手紙1章7節
説教 平和の共同体の心得「贖う(あがなう)」
キリスト教が母体のユダヤ教から異なる宗教とされる教理にイエスキリストの十字架の罪の贖いがあります。主イエスキリストがすべての人の罪を贖ったということです。毎日ニュースでは許せないと思える犯罪が放送されていますが、そういう人の罪もすでにイエスキリストは贖ったということです。分かりやすく言えば、法的に保釈金を支払ってくれたということでしょう。死罪宣告を受けた者の代わりに自分がその死罪を引き受け、十字架についたということです。これは、こんなことがあっていいものか、おかしいと思うのが普通ですが、聖書からみるとイエスの十字架の行為は「贖い」となります。人は神の前には罪人ではなくなったということです。
私たちの罪は贖われたから、そして、これからも贖われ続けるのだから、何をしてもいいのか?と思いますが、私はそうは思いません。十戒を守ったり、イエスの教えを守ったりしようと思います。そして、イエスのことを伝えようとも思います。
本日のルツ記には、嫁ルツと姑ナオミの精神的、社会的、経済的な面倒を見ていくと決めたボアズの話がでてきます。当時の婚姻の習慣では、本来なら、別の親戚の人がルツやナオミの面倒をみる責任があるのですが、ボアズは、それをうまいこと、断らせて、自分が責任を負う立場となります。決していい条件ではないのです。精神的、経済的にも2人の負担が増えますし、異教のルツと一緒になるとすると社会的な立場も不利になりましょう。それを承知で、労苦を引き受けました。
本日のエフェソの信徒への手紙1章7節には、「わたしたちはこの御子において、その血において贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるのです」とあります。私はこれを信じているかと問われますと、実は、信じてはいないのです。私は、神に罪(特に私が残虐と思う罪は)を裁いてほしいと思っているのです。ここに私の不信仰を告白せずにはおられません。どうか、主よ、憐れんでください。
ボアズにみられる労苦を引き受ける贖いも、イエスキリストの十字架による贖いも、それがなされたのは、聖霊による奇跡であるとしか私には思えません。まして、不信仰なこの私が、ボアズのごとく他者の重荷を負うことなど、奇跡中の奇跡です。
しかし、聖書には、この世でイエスの十字架の贖いの奇跡が神によって起こり、また、ボアズのように人によっても贖いの奇跡が起こるということが書かれています。ということは、この私にも、みなさんにも、誰かを贖う奇跡が起こるということでしょう。
みなさまの祝福を祈ります。