聖書 ルツ記1章1節~7節
   マタイによる福音書24章3~14節
説教 平和の共同体の心得
「最後まで耐え忍ぶ希望」

 士師記に繰り返して出てくる聖書の言葉は「そのころイスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」という言葉です。聖書はこのこと自体、いいとも悪いともいっていません。主の前に悪とされることについては、やってはいけないこと、自分を滅びに導くことだということは語っていますが。士師記の時代にも祝福された生き方がある。それの例としてルツ記が聖書に示されていると私は思います。
ルツはモアブというイスラエルの民とは異教の地の女性です。イスラエルの民の妻になりますが、夫は死んでしまいます。舅も亡くなり、残された姑のナオミ(イスラエルの神の信仰者)と暮らしを共にすることをルツは決意します。ルツはその後夫の親戚と結婚し、子を設けます。その子がイスラエルの王ダビデの先祖になるというお話です。 
ルツ記の読み方にはいろいろあるでしょうが、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行って生きる」とき、主を信じ、隣人を大切にしていく生き方が神から祝福を受けるというように私は読みます。ルツ記に出てくる人たちはみんな人がいいです。悪を行うような人は一人もいません。殺伐とした士師記の時代のオアシス、この地での天国のモデルとも思っています。
 本日のマタイによる福音書には終末の徴として、あちこちで戦争の騒ぎや噂がながれ、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こることを世の終わりではなく、「生みの苦しみの始まり」と語ります。さらに「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」とあり、まるで現代だと思ってしまいます。そして、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあります。最後まで何を耐え忍ぶのでしょうか?私は隣人(傍にいる困っている人)を大切にすることだと思っています。そういうことをしていった結果、神から祝福された人生が与えられるということなのだと思っています。

みなさま(特に熊本周辺の地震の被災者のみなさま)の安全と平安、
祝福をお祈りします。