聖書  民数記 5章1―31節(朗読1-4節)
    マルコによる福音書9章42-49節
説教題 平和の共同体の心得「罪から離れる」

 本日の聖書の箇所には、汚れた者(皮膚病や漏出のある者、死体に触れた者)をことごとく宿営の外に出すこと、罪を犯した者は告白し、賠償をすること、姦淫の犯したと疑われた妻の判決法(見分け方)が記されています。旧約聖書によく出てくる律法のように思います。ああ、またか、とも思いますが、これを書かれた背景を考えると、ちょっと、そういうわけにはいかなくなるんですね。これが書かれた時期はバビロニアに自分の国イエスラエルが滅ばされ、囚人として連行された時代も含まれていると思われています。この民数記を編集していた人々は自国を失い、敵国に捕虜として捕まっている人たちなのです。しかも、その国イスラエルは自分たちのヤハウエ―の神が創り、導いてくれたと信じていた人たちです。その国イエスラエルが滅び、自分たちが捕虜となってしまっている苦難の場です。そこで、この箇所が編集されていったと考えると、イスラエルの民は、苦難に会ったことを御心(神の摂理)だと認めていたということです。そして、自分たちの汚れや、神への背きが、国を失う結果になったり、捕囚されてしまうような苦難に遭うことになるのだ、と当時の編集者が思っていたのでしょう。何という信仰でしょう。ここがすごいところです。聖書編集者はあれこれ考えて、自分たちのように、捕囚されている自分に何が足りなかったか、を考えていったら、汚れた者を宿営の外に徹底して出すこと、罪の賠償をすること、特に夫婦がよい関係になることを重要視していった、しかも、神との関わりの中でそう考えたのでしょう。日本人の多く(リーダーたち)は第二次世界大戦で負けて、神としていた天皇を人間として扱い出しましたが、イスラエルの民から比べたら、何という信仰心の脆さ、危うさでしょう。日本人はその後(以前からなんでしょうか?)、リーダーたちは「金」に仕える者となったのではないかと思っています。
 今日のマルコによる福音書には、罪を犯すぐらいなら、手足を切れ、とか、目をえぐり出せ、とか、かなり強烈に罪から離れるようにとのイエスの言葉がのせられています。そして、最後に「互いに平和に過ごしなさい」とイエスは語っています。
 互いに平和に過ごすために、汚れを清め、罪を贖い、夫婦生活を大切にする、
本日の聖書から学んだことです。決して、金を得るためではありません。平和を得るためです。

皆様の祝福をお祈りします。