民数記17章26節~18章32節
   マルコ12章38節~40節
説教 平和の共同体の心得
   「失った事から生まれる信仰生活」

 本日の民数記には祭司職アロンの家族とその補助職レビ人の給与保障が書かれています。土地は所有できませんが、祭儀を行うことによって給与(捧げ物の一部を食用として受け取る)が与えられました。サービス業の始まりです。サービスには礼拝とか奉仕という意味もありますから、サービス業はある意味信仰的(宗教的)と言ってもいいのかもしれません。
 この民数記は実はイスラエルの民が国を失った時にできたものらしいです。国が失われなったらこの書物はできていなかったかもしれません。なんとも不思議な出来事です。失っても創造されるものがある。これぞ、私たちの希望ではありませんか!
 本日のマタイ伝には律法の学者たちが避難されていますが、それは律法学者らしからぬことをしてしまっているということを指摘します。長い衣をまとって歩くのを好む、広場で挨拶されることを好む、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする、という具合です。サービス(律法)の研究者であり、自らも学者というサービス業にありながら、やっていることはこのありさま。イエスでなくても我々でも何か言いたくなりますね。
 国を失っても、否、だからこそ、生まれる物がある。そして、それによって人々の暮らしの秩序が守られ、よりよく生きることができる。そういう今に私たちは生きている、本日の民数記からそのようなメッセージを私は受けています。

みなさまの祝福を祈ります。