5月25日 聖書 民数記16章1節~35節 マルコによる福音書9章42節~50節 説教 平和の共同体の心得「自分自身の内に塩を持て」 モーセに反抗するレビ人たちが描かれています。ここは荒野。そして、あと40年近く荒野にいることを神に宣言され、人々は、乳と蜜の流れる約束の血に入ることができないと分かっていました。自分の子や孫しか入れない・・・そうなったとき、40代、50代の人たちは、自分の人生をどう思うでしょうか?悔いる人がいてもおかしくなかったと思います。それでモーセやアロンの祭司職の人々に逆らったのです。言い訳がすごい「あなたたちは分を超えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは、主の会衆の前にたとうとするのか。」これはある意味正しいと思います。40年荒れ野での暮らしをさせらる。重労働に苦しむエジプトの奴隷から解放されたはいいが、それを恩着せがましく繰り返して言われる。エジプトという裕福な国から強制的に連れ出され、約束の乳と蜜の流れるカナンの地に導くと言っておいても結局エジプトで苦しみを受けたものは陽の目を見ることなく荒野にいるまま。金の小牛を作って偶像礼拝を礼拝したということで、3000人が兄弟、友、隣人が殺された。肉を食べたいと言って鶉の肉を食べて死んだ民。安息日を守らななかったからと言って石打になり死亡。そして、今日はモーセに反抗ということで、地に落ちる死。これらの災いや死は、人が神に従わないから、神が引き起こしたと聖書は記述します。これはひどいと思います。汝殺すなかれの十戒さえ破っているではありませんか。ここでのモーセの集団はカルト教団になっていたかのようです。この聖書の箇所の問題は十戒をも破り、民を殺してもいる神の問題なのではないでしょうか?イエスを十字架につけたのも神です。もはや、これは十戒を提示した神ではない。今日の新約聖書マルコの福音書ではイエスは共に生きることを常に願い実践しました。そして、「信じる小さいものを躓かせるな」といいます。この小さいものとは、イエスの名において悪魔祓いをしていた人です。この人はイエスを自分なりに信じていたのです。自分の信じ方でいいんだ。これが地の塩、イエスを信じるという塩を持てと言います。腐らず、長持ちできるということになるでしょう。イエスを信じるということは、さまざまな人と共に生きるということであり、カルト化の真逆です。イエスはカルト化しようとする弟子たちの信仰に警鐘を鳴らしているのでしょう。そして、イエスは「互いに平和に過ごしなさい、と結んでいます。