聖書  民数記13章1節~14章45節、
       マルコによる福音書9章38節~41節 
説教 平和の共同体の心得「主の命令に背くな」 

イスラエルの民はエジプトを出発して1年数か月約束の地カナンに入れるところまできました。主は12部族の代表を偵察にいかせます。戻ってきた人たちは、カレブとヨシュアの2人以外、とても相手は手強く、カナンに入ることはできないと嘆き、エジプトへ戻ろうと言い出しました。そして、その他民全体も、カナンに行くくらいなら、エジプトや今いる場所で死んだ方が良いとまで話します。それで神はカレブとヨシュアの2人以外はカナンの地に入ることが赦されず、今いる荒野で命が終わることになると宣言しました。

神の命令に従うとは、私たちの暮らしそのものなのだと思います。そこには思い通りに行かないことが多くあり、不安に思うことがたくさんある現実が待っているのだと思います。出産、子育て、就学、就職、結婚、老後など思えば不平不満がたくさんあるでしょう。そして、不平不安から逃れることができないこともたくさんあるのではないでしょか。そのとき、私はこれは神様からの命令なんだと思い、過ごすことにしています。そのとき、平安を感じるものです。
上の民数記の箇所は神の命令に従うことが生きることに有用だと知っている聖書編集者が脅し的に記述したところだと私は思います。実際は十戒に反した暮らし、つまり、人殺したり、盗んだり、騙したりして破滅的な暮らしをした人たちがいたのでしょうけど。

今日のマルコによる福音書には、イエスの名を使って悪霊を取り除くようなパクリ行為(商売かもしれません)をしてる者を弟子たちは見つけ、イエスに「やめさせましょうか」と言いました。すると、イエスは「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で私の悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言いました。

イエスは神の命令を本当の意味で守るように、束縛されている人たちを解放し自由にしていきました。悪霊を取り除くということも人が悪霊から解放され、自由になることでした。イエスのやることをやっているような人は仲間だと言いました。神の命令を守ること、これが重要なのであって、教会へ行っている、洗礼を受けている、お祈りをしている、牧師となっている、これらには無関係、ということを、今日の聖書の箇所は語っていると私は捕えています。

皆様の祝福を祈ります。