ネヘミヤ記6章1~19節
ルカによる福音書8章9~10節
説教 平和の共同体の心得「御心に対する敵」
平和。核兵器を始め武器を放棄し、威嚇ではなく、信頼し合う人間関係で平和を実現する世界は神の国でありましょう。
信頼関係と言いますと私は言語障碍者のリハビリテーションに携らわせていただいている言語聴覚士でもありますので、思うことがあります。言語臨床でまず必要なことは言語障碍者との信頼関係だと言われていて、私も全くその通りだと思います。言語のリハビリテーションは言語障碍者と周囲の方々との信頼関係作りの支援と言ってもいいように思います。コミュニケーションは信頼関係と同居し、信頼関係が成立するところにのみコミュニケーションは成立するように思います。国々には、人と人との間にはこの信頼関係がないのですね。北朝鮮がミサイルを発射した、ISがテロを起した、などと聞くと、国と国(人と人)との信頼関係がないんだなあと思ってしまいます。これらの国々の方々は信頼関係を築くよう言語リハビリテーションが必用なのではないかとさせ思ってしまいます。イエスはこの信頼関係を「愛」と呼んだのだと思います。
本日のタイトルは「御心に対する敵」です。
ネヘミヤ記6章には主の神殿建設への邪魔が入り、もう少しで主の御心を成そうという時にそれを妨害する人たちが出てきたことが描かれています。神殿建設のリーダーのネヘミヤに危害を加えようとしたり、預言者を買収してネヘミヤに聖所に入って扉を閉めるように伝えたり(聖所には祭司しか入れず、ネヘミヤが入った場合は罪を犯したことになり、ネヘミヤは人々から信頼を失い、罰せられる)して、ネヘミヤを陥れ、御心である神殿建設を阻止しようとしました。しかし、阻止は失敗。御心である神殿は完成したのです。ハレルヤ!旧約聖書には御心がこの地でなるという徴が示されているのではないでしょうか?イエス待たずにしてです。
そして、イエスは旧約聖書での神の恵み、今、現在ある神の恵みについて淡々と話していったのではないでしょうか。今日はルカによる福音書8章9節~10節です。弟子たちや周囲にいた人たちがイエスの神の国についてどうしてたとえで話すのかと聞きます。イエスは「彼らが見てもえず、聞いても理解できない」とイザヤが預言しているようになるためだと言います。まあ、なんと突っ放した言い方でしょう。神の救い(神の国)があるのに受けないなら、おらぁ知ったことかっていう感じです。ズーズー弁バージョンで言えばこうでしょうか。「おれ、信頼関係さえつければ人ァ すあわせになって 神の国だっつーのに あいずら、わがんねんだおん。ほんだがら たとえで はなすっちゃ。んだげんとも、わがんねえ やづぁ わがんねーね。イザヤがいってんのど、おんなんじっさ」という感じでしょうかね。
御心の敵とは、人と人との信頼関係によって神の国が実現する、平和が築けるということへの否定や無視でしょう。
言語障碍者と信頼関係ができ、共に何かして過ごした経験をしたときの感覚。あれって天国と言われればそうかもって思えませんか?言語聴覚士も何人かこの説教をみているようなのでちょっと書かせていただきました(笑)
みなさまの祝福を祈ります。