聖書 ネヘミヤ記1章1~11節
   ルカによる福音書18章18~30節
説教 平和の共同体の心得「神が救う」

バビロニア捕囚にあったユダヤ人は、ペルシャの王によって70年にわたる捕囚を解かれ、自由の身になります。但し、ユダヤ人はペルシャ王国の支配下におかれます。ユダヤ人の中には捕囚された地域に留まるものもあれば、故郷、ダビデとソロモンによって築かれたヤハウェの神殿があるエルサレムに戻る者もあったようです。おそらく、旧約聖書の編集者はエルサレムに戻った人々で神殿再建に関わった人たちだったのでしょう。本日はエルサレムに戻った人々の中の恐らく指導者的存在であったネヘミヤが書いたネヘミヤ書に入ります。

ネヘミヤはユダヤ人でもありましたが、ペルシャ王の献酌官という王の毒見役となっていました。ネヘミヤもエズラと同様ペルシャ王国の役人、いわば国家公務員です。そうでありながら、ユダヤ人としてヤハウェの神に従う民族形成を志しているのです。彼はエルサレムの復興を祈るのです。エレミヤもエズラも本当に人を救うのは神しかないという信仰であったと思います。この話は紀元前5世紀の話。

一方、イエスの時代。人々は神に対する信頼を失っていた時代ではなかったのかと思われます。律法を守ることで救われる(永遠の命に預かれる)という考えがあったようです。本日のルカ福音書に出てくる金持ちの議員はイエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と聞きます。イエスは「姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を知っているだろうと語ります。それについてこの議員は「そういうことならみな子どものころから守っています」と答えました。するとイエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」彼はそれができず、悲しい顔になりました。イエスはここで語りました。「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか。金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と。それを聞いた人々は「それでは誰が救われるだろうか」と言い出します。それに対しイエスは「人間にはできないことも神にはできる。」とはっきりと救いは神から来ると宣言されるのです。エズラやネヘミヤのような信仰に立ち返れとでも言うが如しだと思います。

神が救いを与える。この信仰しかないだろうということをイエスは語ったのだと思います。
しかし、そう聞いた弟子のペテロは、「このとおり、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従ってきました」とイエスに話します。イエスはここで、やれやれ、神が救ってくれるって言っているのに、自分が捨ててきたことにまだ固執するのか、そんなことどうでもいいのにと思いながら、次の言葉を宣べたのではないかと思います。「はっきり、言っておく、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は誰でもこの世でその何倍もの報いを受け、後の世にでは永遠の命を受ける。」と。

「神の救い(永遠の命を得ること)は既にある。」そういう信仰を動機にして暮らしていけばこの世で自分に必要なものは十分に与えられるということなのではないかと思います。

皆さまの祝福を祈ります。