聖書 ネヘミヤ記12章27節~47節
ヨハネによる福音書15章11~17節
説教 平和の共同体の心得「喜んで暮らす」
人は何をするにも喜んで行いたいものです。日々の暮らしは喜びだけではありません。辛く苦しい毎日だということもあります。喜べない暮らしとはどういう暮らしか考えてみますと、べテルの家の向谷さんの話していた「なつひさお」さんが私には思い浮かびます。「なつひさお」とは、精神疾患にかかっている人の精神状態を悪くする状態の頭文字をならべたものです。「な」は悩みがあること、「つ」は辛いこと、「ひ」は暇なこと、「さ」は寂しいこと、「お」はお腹がすくこと、お金がないこと、お薬を飲まないことらしいです。このことは何も精神疾患のある方のみではなくすべての人に当てはまることではないかと私は思っています。わたしは日々、「なつひさお」さんにならないように、快眠、快食、快便になるような暮らしをしています。私ごとで申し訳ませんが、そういう暮らしをすることで、何をするにも喜びをもって行うことができるように思います。逆の言い方をすれば、快眠、快食、快便ができなくなるような暮らしはしないということです。
さて、本日の聖書の個所はこの「喜び」について書かれています。ネヘミヤ記12章27節~47節の方は神殿の周りの城壁の奉献式と祝典について書かれています。43節には「その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子ども共に喜び祝った。エルサレムの喜び声は遠くまで届いた」と1節に4回も「喜び」という語がつかわれています。祭儀や礼拝などの信仰生活とは神によって救われ生かされているという喜びの表現であると私は受け取っています。いやいやながら祭儀や礼拝に参加するのではありません。「喜んで」行うなわなければ行う意味がないというようなメッセージを受けました。新約聖書のヨハネによる福音書の方はイエスキリスト自身喜んでいるということを示し、イエスにつながっていることで、イエスの喜びがすでに私たちの内にあり、わたしたちに満たされるということを語っています。イエスは喜んでいたのだ、幸せを感じていたのだ、きっと、誰よりも神から命が与えられたことをイエス自身喜び、幸いを感じていたのだと思います。だからこそ、私たちに神が共にいること、永遠の命が与えられ、救われて今喜び暮らせることを気づかせるために十字架にもいけにえとしてご自身を捧げられたのかもしれません。いったんは避けたいと思いつつも、最終的は喜びをもって。
神は我々に喜んで暮らしてもらいたいと思っている。今日のメッセージはそのように受け止めました。どうかみなさま、神は喜んで暮らしてほしいと願っています。まずは、快眠、快食、快便な暮らしを送っていきましょうか。きっと、おやっと思える喜びに出会えるように思います。
みなさまの祝福をお祈りします。