聖書 ネヘミヤ記11章1節~12章26節
   マルコ15章1~5節
説教 平和の共同体の心得「保護されて存続している宗教」

国家や周囲に保護されている(と思っている)自分を思うからか、本日の聖書の個所はユダヤ教(ヤハウエイ信仰)もキリスト教も国家や周囲の保護によって存続している宗教なのではないかと思います。日本には宗教法人法があることもあり、日本では仏教もイスラム教も神道も他いろいろな宗教も同様に保護下(国が法人格として認めてくれるということくらいでしょうが)にあるともいえるのではないでしょうか。一人の人がこの世で生きていくためには周囲の保護が必要なように宗教もそれなしには存続しないという不思議さがあると私は思います。

本日のネヘミヤ記にはバビロン捕囚からの帰還民について、どの一族がどこに住んだか、祭司や祭司助手のレビ人の名簿が書かれています。ここには、ペルシャの王「ダレイオス」の名が出てきており、ペルシャ王の支配下にあってエルサレムを中心にユダ州に信仰者の共同体が形成され、エルサレムの神殿祭儀が行われていたことが分かります。マルコによる福音書の方では、神イエスがユダヤ人の祭司長や長老、律法学者からローマ帝国のユダヤ地方の総督に渡される場面が描かれています。これはイエスを死刑にしたかったので、ローマ帝国の総督に渡したのです。ローマ帝国支配下のユダヤ人には死刑執行する権限はなく、ローマ帝国の総督にしか死刑執行ができなかったからです。キリスト教の中心的出来事である、イエスの死と復活の出来事もローマ帝国のユダヤ人保護下で起こったことでした。

キリスト教は迫害も受けましたが広まり、4世紀には国が認める国教となっていき、迫害したローマ帝国でも380年国教になり、キリスト教はローマ帝国が滅ぼされても様々な国や地域に守られてきているように思います。実に不思議です。キリスト教は植民地政策に加担したり、国家政策に影響を受けやすい脆さもあり、過ちや罪をもたくさん犯して来ました。それにも、関わらず、キリスト教は存続しています。これは、なぜでしょうか。私は思います。キリスト教以外の方々がキリスト教に寛容で応援さえしてくれているからだと思います。そのような方々に私はただただ頭が下がる思いです。感謝いたしております。こういうことが神の業なのかもしれないと思うこの頃です。

みなさまの祝福をお祈りいたします。