ネヘミヤ記10章1~40節
コリント信徒への手紙第二3章4~6節
説教 平和の共同体の心得「聖霊によって生きる」
ネヘミヤ記の10章には神に仕えるために、主の戒めと律法と掟を守る誓約を立て、記録に残したことが文字に記されています。例えば、イスラエルの民は地元の異教の民とは婚姻関係は結ばない、安息日には地元の異教の民が商品を持ってきて売ろうとしても買わない、7年ごとに耕作を休み、負債を免除する、神殿の奉仕のために納入金、捧げもの規程などあげられて、「わたしたちはわたしたちの神殿を
おろそかにしません」ということで終わっています。わたしはここはネヘミヤが中心となってイスラエルの民と立てた誓いだったと思います。ただ、これにはこの誓いが果たせなかったときの扱いには何も触れておらず、努力目標の確認であったと私は捉えています。後に、律法や掟に縛られていく状態になっていくのでしょうが、十戒も律法も掟も強制されないお勧めだったのではないかと思います。
コリント信徒への手紙第二3章6節には、文字化された律法などは人を殺すとさえ、述べられ、代わって、霊が生かすと語っています。私たちは生きることについては神秘としか考えられない、人がなぜ生きているかは説明できない、人が思い通りに人を作り出すことはできない、人が生まれてくるのは神秘だし、生きているのも神秘だと安冨も語っていますが、私もそう思います。コリント信徒への手紙の著者パウロはこの神秘を霊と表現したのでしょう。
生きていることは神秘で霊が生かせてくださることを覚え、日々人知を超える方救い主に守られていることを感謝するものです。