マタイ9章14節~17節
花婿の客

イエスが以下のように言われたらどうなさいますか。
皆さんは私の招いたお客さんです。
私はあなた方をこよなく愛しています。
花婿のように喜んでいます。
一緒に喜んで食事をしましょう。

そういうことを突然いわれても唖然としてしまいませんか。

私が皆さんを招いたのにはわけがありまして、みなさんの罪を赦すための十字架にかかって苦しみ、死に、しかし、そうすることによって、皆さんとご一緒にいつまでも過ごしたいと思っております。
と言われて、ありがとうございます、と言えるでしょうか。そのときは、そうですか、と言うことはいえても、一人うちに戻ったなら、そんなことあるのか、と思ってしまうのではないでしょうか。気休めを言ってくれたなくらいが、善意なか解釈かもしれません。 
今日は、イエスが私たちを客として迎えてくださっていることについて、しかも、それは、イエスの婚礼の客であること、イエスにとっては喜ばしい出来事の客として、今、私たちを客として迎えてくださっていることについて考えて、気づいていきたいと思います。

結婚式の婚礼に出席させていただいたりしますが、新郎・新婦も喜んでおりますし、その関係者も喜びを伴うものです。客として招かれたりしますと、なおうれしいものですね。

さて、イエスはこのとき、収税所に座っている人、マタイを弟子として、その人の家に行って食事をしていました。マタイはおそらく、徴税人だったのでしょう。徴税人はユダヤの人々からはローマ帝国へへつらう者として、嫌われていたようです。しかし、彼らには生きる道がそれしかなかったのかもしれません、徴税することで暮らしを立てていたのかもしれません。イエスは社会の主流派・多数派の方々ではなく、主流派・多数派から落ちこぼれた周辺の方々と接しられ、よく、話され、食事をされていたようです。
今日の場面もその一こまです。

社会の主流派・多数派、当時の革命家と言われて注目されていた方々がイエスのそうのような行動を不可解に思い、質問します。ヨハネの弟子たちが来て質問をされました。
「なぜ、なたたの弟子たちは断食しないのですか」
自分から、神に認められるようなことをしないのか?という問いをだされます。

すると、イエスは
花婿の婚礼の客は断食するか、と語られます。
もちろんイエスがそう語ったのですから、聖書を読んでいる私たちには、神であるイエスがそういうのだから、と分かりますが、当時その場に居合わせた方々が、あまりぱっとしないような人イエスが、そんなことを話しても、ちんぷんかんぷんでしたでしょう。確かに病人を癒し、嵐を沈めるような奇跡は起こしてはいるが、イエスがわれわれを救う救い主だとは思えなかったでしょう。
そして、聖書を読んでいる私たちも、いま、喜んで一緒に食事をしようといわれても、
もろもろの悩みや苦痛を抱えているものですから、そう、素直になれないのが現実ではないでしょうか。

そして、聖書には、我々を救うはずのイエスが十字架にかかって死んだ、と言う事件が起こる。私の師匠が、指導者が、模倣とするべき人が、命を与え、永遠に私を生かしてくれる神が、罪びととして、十字架にかかった人だなんて・・・
聖書からすると、しかも、その十字架にかけた者が自分自身の罪だなんて・・・
とても信じられない、何も、神ならそこまでしなくても救えたのではないのか、
自分の罪とはそんなに大きな物なのか、
そういう疑問が湧いてきてしまいます。

現実をみると、年金は安く、低所得の方々は多くいる。気仙沼では月15万円手取りで得られれば高所得者の方になっているという。介護保険の改正で入所者が10万円以上の支払いとなってしまう、障害者自立支援法ができてサービスを受けるために低所得の方々からも支払いが増すようになってしまっている。医療費も上がる、医療サービスもリハビリテーションでは6か月以上の方々は保険が利かなくなってしまうことも出てきた。
自殺者も多い・・・

こんな状況でどうして、喜べようか・・・苦しみは消えない・・・

しかし、イエスは、われわれを花嫁とか、婚礼の客として、喜んで、迎えてくれているのです。どうしてだろうかと考えてみますと、私たちが本当に求めていることはどんなことだったか、を、イエスはご存知だったと思います。わたし達は、神から認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、と思っている。意識していようがいまいが、そういう、うめきをもって、体で全身全霊で実は神から認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、愛されたいと求めているのだと思います。パリサイ人もヨハネの弟子もみんな、神から認めてもらいたい、受け入れてもらいたいとおもっているのだとおもいます。だから、断食をし、律法を守っているのでしょう。
現代でも、財産、名誉、位地やを求めたり、欲望を追求したり、自由を求めて浮浪者になったり、している人も含めて、すべての人は、実は、本当に心の底から、本当に根源的に求めているのは、神から認められること、受け入れられること、だということを、イエスは知っていたのではないでしょうか。われわれは、自分で本当に何がしたいのか分かっていないのではないのでしょうか?
しかし、イエスはご存知だった。人間はすべて神から愛されたい、神からお前はいい子だと認められたい、神から受け入れてもらいたい、という魂のあることをご存知だったのです。だから、われわれの代わりに、罪を背負って、十字架につき、罪を贖ってくださった、われわれが欲している愛といわれていることが、これだったのです。我々のような、神からは本当は廃除されるような、あるがままの罪びとと関わり、認め、受け入れ、どうじに神から見捨てられるべき私たちの代わりに、十字架についてくださった。
イエスは愛を私たちにくださいました。私たちはイエスの客として迎えられたのです。そしてもてなしとして、命を与えられたのです。
そういう今、世の主流派・多数派が存在し、人々はなぜ、弱き者、欠けのあるもの、排除されているような人がいなければならないか。すべての人がイエスの客となった。すべての人が神、イエスの婚礼の客とされている。
そのことを只只、受け入れていく者、それが、新しいかわぶくろなのでしょう、そして、新しいぶどう酒をいれた皮袋が、花婿の客のように、喜んでいる者とたとえられているのだと思います。織りたての布とは、もうすでに神、イエスの客となった人々の社会、世の中のことを語っているのでしょう。古い布とは、神から認められようとすること、言い換えれば、自分はまだ、神から自分が認められていないと思う、神から見放されてしまう、神様から見放されているとかん違いすることでありましょう。また、古い皮袋、古い布とは、人間の偉大なる力、支配力、人間が全知全能になるようにしてくれることを叶えてくれる神によるすがって生きることなのかもしれません。新しい皮袋、布と古い皮袋、布は決して一緒になることはない

私は最近、マザーテレサの祈りの言葉を読むようになりました。
多数派、主流派の方々から排除されるような方々のいる問題だらけの世の中の中で、マザーは喜んで経済的に貧しかったり、瀕死の方々と関わりをもち、その方々の中にイエスを見出し、大切にされています。
また、その中で生まれた言葉に次のようなものがあります。少し例をだしますと。

日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。

豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。
日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。

神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛を周りに放つことがことができます。

国と国の間に大きな違いはありません。どこへ行っても出会うのは人々ですから。異なった外見、異なった服装、異なった教育や異なった地位であっても、みな同じです。どの人もみんな愛すべき人です。みんな愛に飢えているのです。

周囲から排除され、独りぼっちになっている方がなぜいるのでしょうか?
イエスの客とされた者には理解できないことでしょう。イエスはすべての人を自分の婚礼の客のように関わってくださっている。周囲から排除され、一人ぼっちにするようなことは、イエスが来られたこの世にあってはならないことでしょう。そこに、神イエスの十字架を見出し、喜んで係っていくマザーテレサのような活動が生まれてきたのだと思います。

本日の聖書から、自分は古い布であり、古いぶどう酒を入れる皮袋でしかないと思っています。しかし、そのようなものの中に、イエスがこられ、私を客として喜んで向かえて下さるイエスがいる、このように、本日の聖書からまなばさせていただきました。
イエスの花嫁、や婚礼に呼ばれたお客のように、喜んで、自分の十字架の道(特に私が排除している人々を、喜んで向かえる、苦しみを共にする、友とする、理解しあう)を歩める者になりたいと思います。

マザーのように、イエスが貧しい者、弱い者、愛を求める物すべての人と共におられることを覚え、さらに、いまここにいることを覚えて、共に食事に喜んで招かれていきたいと思います。