マタイによる福音書 28章1節から15節 イエスの復活の力
自分が悪人でなくなるということは、とても、難しいことですね。聖書のイエスのいう、愛し合う人間になることのなんと難しいことか、愛する事の何と難しいことか、人を妬まないで、傷付けないでかかわる事のなんと難しいことか、イエスに委ねて生きることの何と難しいことか、最近はこういうことを考えて暮らしています。
気仙沼市立病院に新しい言語聴覚士が決まったという事で、私は気仙沼市立病院をやめることになりました。その決まった人は女の子は、昨年4月に老人保健施設に就職が決まった人だったのです。実習生として私が関わった人でした。21歳になったばっかりの方で、私が週に半日通っていた施設で働いていました。気仙沼の人なのですが、1年足らずで辞めてしまうとは、どうも自分にとって腑に落ちませんでした。なぜ、自分の与えられた場所である程度落ち着くまでやっていくことができないのか、という不満が私に湧いてきてなりませんでした。この辺では市立病院で仕事ができるということは、最もエリートな勤務先と言える訳です。自分の実習生にその座を奪われたみたいに、思ってしまう自分がいて、まあ、そういう悪い自分を非常に悔いるわけです。
また、同じ職場の人が、私と私が好きなはずの同級生の人がケアマネに合格しました。そのことがとても妬ましく思えてしょうがありませんでした。自分より低いところにいて欲しいと思っていたのですね。
牧師といいながら、なんと、心の貧しい、狭い、愛のない、自己中心的で人を見下していたい自分なのだろうと、そういう、高慢さに打ちひしがれていました。
また、考えてみると、自分の堕落も露呈してきました。気仙沼市の言語リハビリ相談の報告書を提出していないことがあったのです。担当の保健師も報告書は業務時間外のことですので、まあ、諦めていたようですが、罪の意識に登ってきました。そうして、この事業もやめさせられてしまうかもしれないと、不安が大きくなってしまっていきました。そういうことがばれて只越荘にもいることができなくなるかもしれない。そうなったら、教会の牧師の仕事もなくなってしまう。自分は惨めな人間になってしまう。皆から笑われ者になってしまう。そのときは、もう、それで、パニックになって、自分自身が、本当に壊れてしまいそうになりました、胸がみ、身体痛症状もでていました。3月のある夜、とても苦しみ、心、自己の存在意義が壊れそうになりました。つまり、神からの罰として自分が不幸に惨めになってすべての人から見離されてしまう、何もかにもが、否定されてしまう、そういうような、自己否定的な状況になってしまいました。
さて、その苦しみを何とかしてもらいたいと思い、祈りました。そして、眠れないならと思って仕事をし出して報告保の一部を書き出したら、なんとなく落ち着いてきました。
しかし、この状態を「うつ」というのかもしれませんが、とても辛い恐怖ですね。
人間はここまで、苦しむのか、という苦しみと恐怖を味わった思いがしました。そして、人には無理に押し付けるのは、大変なことなんではないかと思いました。大切に、様子をかがないながら、大事にしていかないと壊れてしまう。いつも、私にとっては大切な人だよというメッセージを投げかけていないと、壊れてしまうのではないか、という思いにさせられたのです。
イエスキリストの苦しみはもっとすごかったんでしょうね。十字架上の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか)という意味です。信頼している神から見離される、これこそ、苦しいことはないでしょう。人にもみ捨てられるのも苦しいですよね。人の苦しみは見捨てられると言うところから来るのだと思います。マザーテレサの言葉に以下のようなことがります。
この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。
とあります。この苦しみや不幸を多くの方々が抱えているのではないでしょうか。また、今は荘でないような人も、誰からも見離される恐怖を覚えているのではないでしょうか。
イエスはこの恐怖を体験したのです。ゲツセマネで不眠だった。悲しみ悶えて、弟子達に話すのです。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていていなさい」 と弟子達に 一緒にいてもらたいことを願うのです。神であろうイエスがどうしたんだと思われるくらい弱気になっているようです。ルカ福音書では、「天使が天から表れて、力つけた」とあり、人や天使の力を借りなければ、どうにもならないくらいに、イエスは悲しみ、苦しんだようです。そして、イエスの祈りは聞かれない、のです。「父よ、御心ならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
イエスは人と神に見離されて、十字架につけられてしまうのです。
私の受けた苦しみは、私の高慢と堕落によるものです。しかし、イエスの受けた苦しみは全くもって、理由が不条理、人間の妬みとか、ムカつくとか、気に食わないとか、真理を認めようとしない人間のためであろうと思うのです。また、イエスの十字架によって、自分の弱さやが癒やされ、罪も赦されることを、聖霊によって聖書から「信じる」ことができるようになることも確かです。
イザヤ書に書かれてる通りです。
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
私もこの春、うつになり、高慢や堕落を嘆き、苦しんでいましたが、いま、だんだんと癒やされてきたように思われます。イエスはそれ以上苦しんだと思うと、何かにが軽くなるんですね。イエスは十字架につき、苦しまれた、それが、神であった。その十字架は私たちの罪を贖った。その癒やしの力は、死者が復活するくるいの出来事でもあった(マタイによる福音書27章53節。)
本日の聖書の箇所は、そのイエスが復活されたということが示されています。病を癒やし、苦しみを癒やし、虐げられた者を見捨てず、共に折るイエス、罪の許しの業の贖いの十字架によって死した聖なるものの復活をさせてくださる主イエス、生、命を与えて下さっている主が、決して、滅ばされる事がないと言う事が示された時です。
「安息日が終わって朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスが葬られた墓を見に行った。」とあります。マグダラのマリアというのは、罪赦されて、イエスに高価な香油を塗った女性である。もう一人のマリアと2人でイエスの墓のところに行って見ていたのです。寂しかったのでしょう。この女性達は、イエスを慕っていた人達だったのだと思います。女性の母性と言うのでしょうか。イエスの形見でもと思って行ったのでしょうか。女性たちは墓へ行ったのです。すると地震が置きました。そのあと、主の天使が天から降りてきて、近寄り、墓の石を脇へ転がし、その上に座りました。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。万人たちもいたのですが、恐ろしさのあまり、震え上がり、死人のようになってしまいました。天使は婦人たちに言います。「怖れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、ここにはおられない。かねていわれていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って、弟子達にこう告げなさい。『あの方は死者の仲から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこで目にかかれる』確かにあなたがたに伝えました。」 婦人達は怖れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子達に知らせるために走って行った。
とあります。とてもうれしかったのでしょう。
するとイエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「怖れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に合うことになる。
「おはよう」の意味には、喜べ、という意味があるそうです。
「ここでは、おそれず、喜べ」というメッセージが与えられているように思います。
ガリラヤは弟子達の出身地、いずれ、もどらなければならない地です。そこへ、彼らはどんな思いで帰るのでしょうか。自分の最高の教師、友、人、神として信じていたものが、十字架にかかって惨めに死んでしまった。こんなに挫折を経験することはなかったのではないでしょうか。
弟子なら、うつ状態で何も出来なくなってしまうでしょう。それが今、ガリラヤへ復活のイエスが行って、そこで、合えると伝えているのです。何と言う喜びでしょうか。
11節から15節、復活の奇跡さえ、それをもみくちゃにしてしまう記事が書かれていますが、人間というのは、こうも、神に対して否定的なのでしょうか。普通はそうなのでしょうね。復活の真実をも無関心、興味なし、といいますか、人とは一体何に興味をもっているのでしょうか? 何をしているのか、分からないというのが本当のところなのでしょう。
信じるものと、信じないものは、神の選びによるのかもしれませんね。
イエスの復活とはどういう意味、力があるでしょうか?
十字架のイエスがこの地に復活されたということです。
私たち弱いものをそのままにしてはおかない。見離さない。
罪を贖い続けるために、この地においでになっている。
そして苦しみを癒やしてくれるために、同じように苦しみ、いや、それ以上に苦しみ続ける主イエスが共にいるということ。
復活はそういう力、イエスキリストの十字架の力、が、今もこの地にあり続けることを示しているのだと思います。そう信じていくとき、わたし達は苦しみのある暮らしを、癒やされ、乗り越えていくことができるのではないでしょうか、或は、人智では解決できないと思われる問題を、主イエスに委ねていくことで、生きていくことができるのではないでしょうか。
苦しみを抱えた方々、イエスの復活によって、その苦しみは今、復活した、イエスも共に預かってくれているのです。
そして、イエスの復活の力で、必ずや、私たちは、神と人間、キリスト者には見捨てられず、尊重されていくことでしょう。なぜなら、私たちの体は神がお住まいになる神殿なのですから。人に宿る神、聖霊が与えられているのですから。
初めに私は以下のようにつぶやきました。
自分が悪人でなくなるということは、とても、難しいことですね。聖書のイエスのいう、愛し合う人間になることのなんと難しいことか、愛する事の何と難しいことか、人を妬まないで、傷付けないでかかわる事のなんと難しいことか、イエスに委ねて生きることの何と難しいことか、最近はこういうことを考えて暮らしています。
しかし、本日の聖書から、イエスの復活の力によって、私たちは、自分が悪人でなくなること、愛し合う人間になれること、妬まないで,人を傷つけないでかかわる事、イエスに委ねていくことが、難しいことではあるけれども、それは可能でもあるという、希望を与えられたのです。
お祈りいたします。