マタイによる福音書28章16~20節
「すべての民を弟子としなさい」
イエスは復活して40日間使徒たちに現れ、神の国について話されたと言います。これは使徒言行録1章3節に書かれています。「神の国」について話されたのでですね。この世の国のことではない、「神の国」。これについては、ヨハネの黙示録21章3~4節によれば、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民になる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」とあります。神の国、天国、御国とも聖書では言われますがそのような死も悲しみも嘆きもない世界が私たちに与えられる希望を復活したイエスは使徒たち弟子たちに語ったと思われます。もちろん、イエスは生前にも話されていたことです。
さて、本日の聖書の個所は11人の弟子たちがガラリヤに行き、とありますように、舞台はガリラヤです。このガリラヤというのは、イエスの出身地、弟子たちの出身地でもあるようですが、「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる(ヨハネ7章52節)」とか、「ナザレからよいものは出ない」(ヨハネ1章46節)と当時のユダヤ人の指導者や一般人は思っていたようです。旧約聖書の列王記や歴代誌をみますと、このガリラヤは北イスラエル王国の方で、王は19人ともすべて主の目に悪とされることを行ったとされ、良い王は一人も出なかった地域です。ユダヤ人たちが地域的偏見を抱いていたとしても歴史的におかしくない地域です。ユダヤ人たちが預言者や救い主が現れると考えていたのが、ガリラヤから100キロくらい南のエルサレムとかダビデの生まれた場所ベツレヘムです。この地域に、列王記、歴代誌に描かれている南ユダ王国があり、ダビデの子孫の王朝が20代に渡ってバビロニアに占領されるまでありました。キリスト教徒でさえエルサレム辺りを重要な地域と考えていて、ガリラヤやナザレはエルサレムほどそんなに注目していないのではないでしょうか?エルサレムはイエスが殺害された場所です。そう思うと物騒な場所だと私は思ってしまいます。
本日の復活のイエスは、その、よいものは出ないというガリラヤで弟子たちに出会い話されました。弟子たちはイエスを礼拝するのですが、「疑う者もいた」というのです。復活のイエスに出会ってもまだ疑う弟子たち。なんということなんだ、と思ってしまいます。しかし、そこで、イエスは言うのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。疑う者にこういう事を言っても言うことを聞くのだろうかと思いますが、イエスはこう言ったのです。そしてこのことばは私自身にも迫ってくるのです。この言葉を聞いて、こんなことできるのだろうか、無理だと思ってしまいます。すべての民、人をイエスの弟子にする、そして、洗礼を授ける、更に敵を愛せとかイエスが命じておいたことをすべて守るように教える、と言われても、私は牧師になって、まだ、誰一人洗礼を授けていない、イエスの弟子失格、牧師失格、教師失格ではありませんか。
しかしですね。イエスは疑う者にも近寄って来て言われたんですよね。いやー、やっぱり迫ってきますよ。それで、わたしはこの言葉に答えるためにどういうことをしているかというお話をします。友となる、ということがありますよね。ヨハネの福音書15章14節にイエスは弟子たちを「友」と呼ぶ。と言っています。人間関係はみんな「友」がいいんじゃないかって思ってやっているわけです。これなら気軽にできますよね。みんな友達みたいな感じでですね。
私、障害者支援施設で言語聴覚士という言葉のリハビリテーションに関わっています。施設にいる方は脳の障害などで治らない人がほとんどですが、コミュニケーションはしたいと思っている人がいるんです。私は雑談をすることが多いのですが、雑談でも求める人がいるんですね。求める人には私は雑談をするようにしています。天気がどうの、今日のごはんはどうの、楽天ファンがいれば楽天がどうの、安倍さんがどうの、その人に合わせて、たわいもない話ですが、しているんですね。そうしていると、毎週来てほしいとか、毎日ずーっと一緒にいろとか、帰るなとか、結婚しろとか、そういう人も出てきているんですよ。施設職員の中では「利用者と友達になろう」みたいな人とは利用者はうまくいく感じですね。そういう時は至福な感じを私は受けるものです。おそらく他の職員も同様でしょう。
ところが、職員の中には利用者を見下したり、自分の方に合わせるように脅迫したりする人もいます。そういう人についての、うちの施設での話なので、不思議な話なのですが、ある知的障碍に精神疾患の合併した利用者の方から、反撃に合っているんですね。「殺すな」「人殺し」「なんで殺した!」と精神疾患の方から反撃の言葉を大声で浴びせられるんです。妄想のでる精神疾患なんですが、はたから見ていて、「してやったな」と私は思ったりもしています。その利用者を見下す人って誰をも見下しているようなんですよ。私をも見下しているようだったので、「ざまみろ」と思っている次第です。敵をも愛せと言う教えですから、私は悔い改めないといけないと思いますけど。それから、その職員、怖じ気ついて、その人に悪く言わなくなったんです。私にも、あんまり、見下すことはなくなった感じです。利用者とも私とも関係は割とよくなりました。それにしても、こんなところから、人を愛せよというような諭し、わたしからすれば、まるで、イエスの救いの業が起こるとは、思いもよらないことでした。さらに意外だったことは、その精神疾患の方は前に教会に通い、讃美歌とか主の祈りに親しんでいた方なのです。ですから、私は職場に行って、この方となら、「慈しみ深き」と「主の祈り」を職員の前で行うことが出来ているのです。大義名分は「利用者の心を落ち着かせる」ということですけど。
「友となる」こととか雑談をすることは、最近、ビッグデータからも健康に良いとか長生きするとか言われるようになってきました。石川善樹という人は『友だちの数で寿命は決まる 人との「つながり」が最高の健康法』という本も出しています。つながりもそんな深いつながりでなくてよいようです。さらっと言いたいことが言える雑談できる関係がよいということです。職場でも雑談できる同僚がいた方が仕事がうまくいくとその本で語っていました。まさか雑談に命を伸ばす力や仕事の能率を上げる力があったなんて、意外なところに救いがあるものですね。まるで、よいものが出ないと言われたナザレから救い主が生まれたようではないかと思ってしまいます。
今日は宮城北地区の総会です。「すべての民を弟子にしない」のイエスの命令に従って、地区活動がなされていくことなのかなと思いますが、私なりに考えますなら、こうした機会で友となり、言いたいことが言えるような雑談ができる方々を増やし、お互いのこの世での神から与えられた命を長らえたり、健康に良い状態になったり、地区活動やみ旨に従う仕事がうまくいく機会にもなり得ると期待しています。