マタイによる福音書27章45節~56節 墓から出る324 325 326
イースターおめでとうございます。春にイースターというのは希望を意味する上でとても合っていますね。イースターは毎年毎年重ねるにつれて、希望を与えられるものです。イエスの十字架の死からの復活。このメッセージを思い起こすには丁度よい時期ですね。
さて、このメッセージ、わたしたちは、イエスキリストの復活を喜んでいるわけですが、この復活は人間の復活をも指し示しているわけでもあります。
このメッセージをどう取るか、が重要なわけです。私たちは決して終わることがない、もう終わりだと思って絶望して終わらない。終わったとしてもまた、始まれるという希望のメッセージなのです。終わりから始まるのだ、という希望のメッセージなのです!これが、神にだけに関してのことではなく、じつに、わたしたち一人一人について、そうなのだということを聖書は語っているように思います。
今日の聖書の箇所はイエスの十字架の話です。
有名な箇所です。
さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが二時まで続いた。二時頃イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて「エリヤを読んでいる」と言う者もいた。そのうち一人が、すぐに走りより、海綿を取って酸い葡萄酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの人々は「待て、エリアが彼を救いに来るかどうかみていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖人たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出てきて聖なる都に入り、多くの人々に現われた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしてた人たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非情に怖れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちはガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々である。その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
この聖書の箇所からいうと、イエスの十字架、は、人間によってなされたものです。人であり、神であるイエスをこの人間の世から葬り去ったということです。イエスは「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」とまで叫びます。これは頼るべき物を失った人間の絶望の叫びであり、詩編22編の冒頭でもあります。そこに居合わせた人々は「エリアを読んでいる」といいました。エリアは列王記下2章に出てくる預言者で、生きたまま天に昇り、苦しむ人を助けると信じられていました。そのエリアを呼んでいると思っている人たちがいたのです。まあ、信仰的な方々にも囲まれていたのですね。その一人が走りより、海綿を取って酸い葡萄酒を含ませ、葦の棒に付け、イエスに飲ませようとしました。これは詩編69編22節にありますみ言葉から来てるようです。「嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人はわたしに苦い物を食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。」とあるみ言葉と関係があるようです。ぶどう酒と没薬で麻酔薬にしたということもあるようですが、この箇所もいろいろ解釈がなされるところでしょう。ほかの人々は「待て、エリヤが本当に彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。死期を直前にしている人へのなんと自分勝手な思いでしょうか。しかし、ここに私自身の冷たい残忍さを重ね見ます。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
とあります。イエスは助けられませんでした。
さて、それから・・・
神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けました。ここで、神殿の垂れ幕というのは聖所(主がおられる場所)と至聖所(聖所に至る場所)を分ける幕でして、聖所と至聖所の区別がなくなり、この地すべてが聖所となり、主の恵みを求めるもの全てにその恵みが与えられるという事になりました。これが十字架によってなされたことです。
それから、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に現われた。
とあります。
十字架の結果、イエスが人々から殺された結果、何が起こったか?聖なる者の復活、死からの復活が起こったのです。人類を恨み滅ぼすべき神であると考えるのが人間の神概念であり、それは旧訳聖書のノアの方舟の洪水、ソドムとゴモラ、聖戦での滅ぼされたりすること、それらを聖書編集者は神の裁きと位置づけてきたのかもしれません。
実に、神は、これまでも、人がどんなに悪かろうとも、裁かず、その自然にまかせ、罪を赦し、恵みを与え、生かし続けてきてくれた方であった、ということ、そして、十字架に架けられたそのときが、それを証明されたし、また、そうであった。そして、復活によって、その神の業、人がどんなに悪かろうとも、裁かず、その自然にまかせ、罪を赦し、恵みを与え、生かし続けてきてくれる業を続けていくということを、わたしたちにしめしてくださったのです。
わたしたちに与えられた恵み、それは、墓から出る、そして、聖なる都に現われるということです。
それは、何を意味しているでしょうか。
実際、死んだ者が復活するということでしょうか。
もちろん、それもあります。
今、生きている人への復活の力とはなんでしょうか?
先にも述べましたが、もう、終わりだということがないということです。
もう、終わりだと思ったところが出発になるということです。
一人一人与えられた神様からの使命や役割は違うと思いますが、
隣人を愛すること、敵をも愛すること、平和な共同体を形成していくこと、全人類が平和になること、よき教会形成をしていくこと、信仰を深く、強くしていくこと、など、たくさんやるべきことを持ち願い、しかし、ダメだと諦めていることもあるのではないでしょうか。もうだめだ、こう、思ったときが実は、この復活の出来事が大きな力になります。そのとき、復活の主が導き、大丈夫のようにしてくれる、そういう、希望が与えられるのです。
ある方、30代の若さで脳に腫瘍ができた方で手術をして寝たきり状態でお子さん、旦那さんもいるかたがいるんです。聖書の本日の箇所を読んで聞かせましたところ、「エーッ」と驚き、喜んでいました。自分はもう終わりだ、死んだら終わりだと半ば諦めかけていることもあったんですね。聖書は決して終わりだとは言わないのです。はじめに、といい、終わりには、復活というのです。滅びに対しては新しくするというのです。わたしたちは自分たちの行うことには限界があり、終わりがあり、地上も滅び行くのではないかと虚無に服していませんか?
聖書はそれを復活という出来事で否定しました。
そして、わたしたちには、常に希望が与えられているという事に気づかされるのです。
今日のお話のタイトルは墓出る、というタイトルですが、イエスの復活の出来事によって、わたしたちは常に、絶望の時でさえ、希望をもって生き始める、という意味にとってください。
フランチェスコの平和の祈りというのがあります。それを最後に紹介します。
神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように
いさかいのあるところに、赦しを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光を
もたらすことができますように、
助け、導いてください。
神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを
望ませてください。
自分を捨てて初めて
自分を見出し
赦してこそゆるされ
死ぬことによってのみ
永遠の生命によみがえることを
深く悟らせてください。