聖書:マタイによる福音書26章36~46節
説教:「平和の共同体の心得」無理解なものと共に

今日から受難週と言われる週になります。今週の金曜日はイエスが十字架につけられ死に、日曜日には復活した日ということにして、来週の日曜日はイースター(復活祭)となります。十字架刑というのは、キケロという人の話では、最も残酷で最も恐ろしい処刑なそうです。イエスキリストも、願わくは受けたくない、助けて!、と神に祈った処刑です。イエスの凄さは、十字架にただかかったから(ただ受難にあったから)凄いのではありません。彼は、病院をいやし、障がいを直し、悪霊を追い出し、抑圧されている方々を解放しました。その結果が十字架刑であったというところが凄いのです。
人間は、医療や福祉ののような活動については報酬を貰ってするか、せいぜいボランティアでする程度です(これらとて重要ですが)。イエスは十字架と引換えに善を行ったのです。そういうことをするイエスを弟子達は理解できないでいました。私にも、なんでそこまでしなくちゃいけないの?という疑問が湧いて来ます。その意味を理解できないのです。イエスはそういう理解できない私たちと共に「行こう」と言いだします。「行こう」と言うのです。どこにかというと、病院をいやし、障がいを直し、悪霊を追い出し、抑圧されている方々の解放などの善をしに行こう、ということでしょう。
イエスのやろうとしていることが分からなくても、共にいらして歩んでくださっているイエス。たとえこの世が闇であろうと、光となって善の道を与えてくださるイエス。そう信じて歩むところに救いを感じる者です。