マタイによる福音書26章17節から25節 他者を救う喜びの宴
除酵祭の第一日のことです。
除酵祭というのは、
本来、祭りとは、自然の恵みを願う人類の祈りであります。
過越の祭りは、元来は、牧畜的な祭りで、家畜の繁殖を祈り、家畜が災害から守られるために、小羊を犠牲とし、その血を天幕の入り口に塗ったものであります。
これと時期的に同じくする農耕的な祭りに除酵祭がありました。
パレスチナでは、大麦刈りの初めにあたり、農繁期に入るころから、簡素な種をいれないパンを弁当にしました。おそらく、忙しいかったために、酵母(イースト菌)をいれてパンを焼いているひまがなかったのでしょう。
春は、年の始めであります。当時ユダヤでは、バビロニヤで発明された大陰暦を用いておりニサンは、初めを意味するアッカド語であり、カナンの暦では、アビブと呼ばれています。
大陰暦ですから、月を見る役人がいて高いやぐらの上で月の見えるのを待ち、太陽の沈んだ後の西の空に細い新月が見えた日をその月の1日としていました。
今から考えればおかしい気がしますが、1日の初めは、夕方から始まります。
創世記の中でも、夕となり、また朝となったと記されています。
クリスマスイブも本来は、前夜という意味ではなく、そこからが始まりです。
ニサンは、雨季が終わり、乾期の初めでもありました。
この時期には、夜間に多量の露がおりないと穀物が育ちません。
それゆえ、除酵祭は、露のために祈る祭りでありました。
この起源が異なる2つの祭りが合併され、過越といわれている除酵祭(ルカ22.1)になりました。
ところが、ユダヤ人にとって、この過越の祭りは、別の意味がありました。
イスラエル人が、エジプトの奴隷であった時、モーセは、イスラエル人を引き連れてエジプトを脱出しようと試みました。しかし、この脱出に際し、エジプトの王は、かたくなに10回にもわたり、脱出を妨害しつづけました。
そこで神は、最後の災いをエジプトにもたらすから、モーセに準備を命じました。イスラエルの民は、家族ごとに小羊1頭を屠り、その血を鴨居と入り口の2本の柱に塗り、朝まで家の中に潜んでいると、神はエジプト人と家畜の初子を撃ったが、血の塗られた入り口は、通り過ぎて、イスラエルの民は救われました。この出来事を知ったファラオ(王)は、この災いをもたらす、民を国外に退去させました。
神が通り過ぎて行くの意味から、過越の祭りと名づけ、イスラエル人は、この祭り子孫に伝えました。
除酵祭の方も、エジプトで奴隷の悩みを受けたことを思い起こさせます。
種入れぬパンは、貧民の食物であり、応急の食物でありました。
(出エジプト記12.39-40)
イエスは、救いを成就するために、十字架にかかって死ぬ時期を故意に過越の祭りを選択しました。
生前イエスは、弟子たちに次のようにいっています。
ヨハネ伝 10.17-18
父はわたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛してくださるのである。
命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが自分から、それを捨てるのである。
わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。
これは、わたしの父から授かった定めである。
過越しとは、小羊を犠牲とし、その血によって、神の裁きを受けず神が通りすぎることであります。
この小羊こそがキリストであり、十字架にかかって流されたキリストの血の贖いによってキリストを信じるものは、救いにあずかることができます。
エジプトでの奴隷とは、罪の奴隷を意味します。しかし、この罪はキリストが十字架にかかって死んだことによって滅び、キリストが復活したことにより、新しい命として復活します。
さて、イエスのこの行動は、周囲からは極めて異様な眺めではなかったか。
自分の死を前に、過去何千年も前の救いの喜びの祭りの祝いの席でお祝いをする。そして、過ぎ越しの意味を、イエス自身が十字架につけられる祝いとして記念としてやれ、という。
どう考えてもカルと的ですね。ユダヤ人には理解できない状態です。「何いっているの?この人」と言う感じですね。この人は狂っている、神なんかじゃない、と裏切っていくユダの気持ちもわかる。十字架に架けられたとき、逃げ去ったり、自分は知らないと言う人の気持ちはよく分かります。それが普通ですね。
イエスと言う人は知れば知るほど、おかしな人だ。主流からは外れているが、かなり信仰的には父と親しくしていた。そして自分の言動に自身をもつ、小集団。カルトと間違えられるかもしれませんね。イエスが3年の活動で12人の弟子。しかし、裏切る弟子が出るような弟子の養成。イエスは宗教的に完全に失敗した人のようです。何が偉そうに、教会堂一つも作らないで言っているのか。などといっているだれかの声が聞こえます。
イエスは、出エジプトのときの過ぎ越し祭を行いながら、自らが、屠られる子羊の血になろうとしているのです。
それは、だれを救うためでしょうか。
ユダヤ人はもう救われていたのではなかったのではないでしょうか。
それは、エジプトの王や人民のための地と肉ではなかったのではないのでしょうか。
万人のための救いの業、それがイエスキリストの十字架の意味なのです。
わたしたちは、神から尊い者として愛されている、
この恵みをすべての人に分かち合いたいと思います。主流にならないで、小さな単位で、
恵みを分かち合うことが重要かと思います。
あーめん
あーめん