マタイによる福音書2章3節から14節 最後まで耐え忍ぶ
私たち信仰者は教会を作り、週に一度礼拝を守り、神の言葉を聴き、信仰を守り、暮しています。平和を願い、他者を愛し、特に貧しい人や弱い人に、心を向けて歩んでいます。
私も牧師となり、障碍者施設で働かせて頂き、主の御旨を少しかは働かせて頂いているのかと思い、感謝しているのです。
福祉的視点では,マザー・テレサのことばに頼り、仕事をさせていただいていました。『人間にとって最大の不幸は病気や貧困ではありません。自分は誰からも必要とされないと感じることである』ということから、そういう方々の友となって歩もう、それが、『人はパンのみで生きるにあらず、神からでる一つ一つの言葉で生きる』と話された聖書の言葉の実践でもあろうと信じてきたのでした。マザーテレサはいい言葉を残してくれた、これを頼りに自分も福祉の道を歩もうと、勇気付けられ、その言葉を人にも紹介してあるったりしていたのでした。
それから、もう一つ、それは、マザーも感じていたようですが、貧しい人や苦しみのある人から頂く、純粋な感謝の気持ち、助ける人を受け入れてくれる、受容の大きさ、こちらが元気にされる、相手からの本気の感謝や信頼や従順、そういうことに、自分の存在意義を見出しているようにも思います。
私は牧師となり、鳴子教会気仙沼集会で礼拝を行い、福祉に関わる、これぞ、神と人に仕える、神の御旨の実践をしていると歓喜を伴い自負していました。マザーテレサと規模は違っても同質のことをしていると誇りに思っていました。
さて、このように順調かと思っているときに、昨年暮れ、私は危機的状態に立たされました。その危機は、2つありまして、一つは、マザーテレサへの信望の崩れ、もう一つは福祉施設の職場での問題です。
まず、一つ、マザーテレサへの信望の崩れですが、イエスの視点を持ったマザー・テレサが、生前に書いた手紙が出てきたそうです。その中に、
「私の笑顔は自分の心の奥のとてつもなく大きい苦しみを隠すのに役立ってくれた。」「神は私を必要としてはおらず神は万能の神などではなくそもそも神など存在しないのだ。」「私はといえば、虚無感と沈黙に苛まれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない。」「私の信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、虚しさと闇しか見あたらない。神よ、この得体の知れない痛みがどれだけつらいことでしょうか。」
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない。」
この人はこうした信仰心の危機、欠落、消失の苦痛を、実に50年近く心の奥底に抱えたままそれを隠し通して逝去したということを話す人も出てきました。
このことを知って私は大きなショックを覚えました。私が尊敬してやまない、マザーテレサ。福祉やリハビリのモデルを提供してくれると思ったマザーの言葉・・・そのマザーが不信仰の状態でもあったとは、何たることだ。マザーの生涯は神と共に生きたと実感できる生涯ではなかったのか。そこには苦しみと闇しかなく、光は見えていなかったというのか???と、どういう風に理解していいか、マザーをモデルとしていいか、分からなくなりました。
次に福祉施設の職場での問題ですね。12月暮れ、職場で、全体の職員会議でショートステイを利用する利用者のために、良かれと思って、食事介助の仕方をビデオでみせると、介護職の方から、もう、これ以上、「一人一人に合わせた対応は出来ない、そうして言ったなら、限りなく要求が出てきて出てきて、わがままになってしまうことも考えられる」ということでした。なぜ、そういうことを言うのだろう。福祉を専門とする人がなぜ、と考えてみました。その人は10年も福祉事業に従事している人な訳です。聖書も読んだことがある人なのです。頭もいい。そういう人がなぜわがままという言葉を使って、自分達の正当性を訴えようとするのだろうか。・・・以下のように思ったわけです。
「利用者の人権尊重、人権尊重、という憲法でも法律でも謳われている、個別支援計画というきめ細かい対応が必要と言われている。最も正等だと誰もが認める理念が、介護する人に圧力をかけてくる。そうして、自分に課せられる、仕事。たくさんの人がいればよいけれども、経営上、少ない人数で出来るだけ多くの人を見るようにと経営者から言われる。にっちもさっちも行かなくなって、パンク寸前の状態になっている」。理念に押さえつけられ、「重荷を増やさないでくれ」とは言えない雰囲気なのでありましょう。そういうものなら、重荷とは何か、障碍者を支えることが重荷なのか、そういう考え方が、支える方も、大変だと言うことが分かりました。さて、どうしたらよいのか・・・?
聖書には弱い者、いと小さきものを支えたものはイエスを支えたとある。障碍者が小さきものなのか、それを支える職員が小さきものなのか、わからなくなりました。国家予算がたくさんついて人員が増えれば、問題は解決しそうなのですが、そういうことにもなりません。
本日の聖書の箇所は、終わりの時のことを語っています。
弟子たちが、イエスが祈っておられるところへ来て、尋ねます。「おっしゃってください。
そのことはいつ起こるのですか。また、あなたがこられて世の終わる時には、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになりました。「私の名を名乗るものが大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争のさわぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているがまだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のためにあなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人が躓き、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現われ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に述べ伝えられる。それから終わりが来る」
ここの耐え忍ぶということは、「留まる」という意味があるそうです。 また、「しっかり、立つ」という意味や「望みに生きる」という意味もあることばなそうです。
さて、最後まで信仰にしっかり留まり、イエスの望み(イエスの祝福に預かれるという思い)に生きるとき、救われる、というのです。そうしたときに私たちは苦しみや死、躓きや、裏切り、憎み合い、惑わし、不法、愛が冷える、そういうことがあるけれども、救われる、というのです。
「救われる」とはどういうことか。
教義として、イエスの十字架の贖いによる、罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの命(永遠の命)を得るとか、を言ってもいますが、ここでは地上での暮らしでの、苦しみ、恐怖、絶望からも救われる希望があるといっているのだと思います。喜びや平和が必ず、残されていくと思われます。ですから、この聖書の箇所は次のように読むことが出来るのだと思います。
「私の名を名乗るものが大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。しかし、私の信仰に留まっていれば、惑わされることはない。
戦争のさわぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているがまだ世の終わりではない。そして、私の信仰に留まっていれば、戦争になったとしても、平和になろう、また、私の信仰に留まっていれば、戦争は避けられる。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるようなことがあっても、私の信仰に留まっていれば、和解が可能になり、平和を実現することができる。
方々に飢饉や地震が起こることがあっても、わたしの信仰に留まって入れば、乗り越えられるであろうし、飢饉や地震は起こらない。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりであり、不信仰によって。もっと、ひどいことが起こるかもしれない。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。しかし、信仰に留まっていれば、苦しみは癒やされるし、それを受けることもない。殺されても復活の希望をもって殺され、殺されても、実際に復活する。信仰に留まっていたなら、殺されもしない。
また、私の名のためにあなたがたはあらゆる民に憎まれる。しかし、信仰に留まっていれば、すべての民から愛される。
多くの人が躓き、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現われ、多くの人を惑わす。しかし、信仰に留まっていれば、多くの人が躓くことなく、互いに信頼し合い、愛し合うようになる、偽預言者にも惑わされず、偽預言者は現れない。
不法がはびこるので多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。信仰に留まっていれば、多くの人の愛が冷えても、また、愛が温まりその価値をみんなが見出し、多くの方々が人々を愛しだし、大切にしあうようになる。
そして、人々が不信仰になれば、なるほど、神は、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に述べ伝えられる。それは、あらゆる人を救いたいからであり、福音を知り、そのなかで、一人でも信仰に留まっているものがあれば、世は終わらない。全世界に福音が伝えられ、誰一人、信仰に留まらなくなったとき、それから終わりが来る。しかし、イエス私が天国を用意してあるから、そこで、皆暮そう。できれば、この地で、天国を実現したいのだが・・・」
というようにです。
現代社会をみると、おかしい事が多いですね。昨年の10大ニュースをみても、一番に上げられているのが、日本では、中国餃子や、首相の政権投げ出し、世界では金融会社破たんのニュースでした。いいニュースがありませんね。金儲けに走る企業家、仕事がいい加減な人たち、福祉職にいても仕事の余りにも多い辛さから、愛せなくなってしまう人間の弱さ、憎しみから、絶望からの殺人や自殺、金融の問題、病が癒やされない、国の弱者への社会保障費の財源のなさ、貧困、戦争、地球温暖化、ゴミ問題、災害など本当に世が終わるんじゃあないかなと思われる時代です。そういうおかしさは、2000年前にもそういわれてきました。今日の聖書の箇所はそれを表しています。もうおしまいだ、と。
そうして2000年経ってもまだ、まだ、終わっていない、この世はある、大丈夫ですね。なぜでしょう??? アメリカ合衆国があんなにめちゃくちゃ自由を謳歌しても大丈夫滅びないのは、キリスト信仰者がいるからだといっている人がいます。キリスト信仰者は聖書の言葉の「敵を愛しなさい」とか「隣人を自分のように愛しなさい」ということを信じて、実行していく人たちのことだと思います。キリスト者っていうのは意識せずに困っている時に顕われて、何か生きること元気を与えてくれるような人をいうのだと思います。信仰に留まっている人はそういう働きをして、世を天国にちかくにしてくださいますから、滅びることができないのでしょう。そして、アメリカでは、オバマさんという黒人が大統領になって、80%以上の支持率を得ていると言います。
信仰とは、この世の終わり、イエスの再臨を遅らせる業でもあるのではないでしょうか。再臨は神の言葉を聴きながら,誰一人、イエスを信じなくなったとき生じるのかもしれません。本日の聖書の箇所からもそう理解できますし、イエスがすべての人に宿っているということになれば、やはり、この世で一人イエス・キリストを信じていれば、信仰に留まっていれば、この世はまだ、滅びない、人々が愛し合う、希望があるということになります。この世で誰一人イエスを信じなくなってしまった場合、信仰に留まる人がいなくなった場合、この世の終わりです。しかし、それでも、滅ぼさないと、イエスはいっているのではないのでしょうか。すべての人に信仰心がなくなっても、そうなっても、イエスはこの世を終わらせ、そして、新しく、天地を作り、そこに、地での死者を復活させて、永遠に生きる新しい人、おそらく、それは敵を愛することができる人なのでしょうが、そういう人と共にイエスとともに生きることになるのだろうと思います。
私が、信仰に留まっている限り、礼拝は続き、只越荘での職場でも、喜びをもって仕事が出来ていくことが出来るのでしょうか。今日の聖書から考えて見ますと、それは、そうなる、イエス(肯定の返事)。ということになりましょう。職場の話の後日譚を話させて頂きます。職場で文句を言った人は、実は、神から、愛しなさい、とメッセージを受けているんですね。
で、しかたがないので、昨年、クリスマスのとき、メールを送りました。直接口でいうのが恐いので、メールで、「メリークリスマス! これからもイエス様に守られて、導かれていきますように祈ってます」と送ったわけです。
そうしたら、「メールありがとう。クリスマスは夜勤と会議で終わりました(泣き)。しかたないね。来年はもっといい年にしたいですね。みんな祝福があるように信じたいです。今年もいろいろありがとう。」という内容のものでした。
このようにして、私は、信仰によって、この地にも祝福をもたらすことが出来る、喜びのある暮らしを経験できることを、小さなことでしたが、体験させられたような気がしました。
マザーが苦しんだのは、ご自分も言っている通り、信仰がなくなってしまった、イエス・キリストの十字架の救いと復活の恵みを信じる信仰、そして、我々を喜びと感謝に導く信仰に留まっていられなくなっていたためだったのかもしれません。その理由は何かよくわかりませんが・・・
ですから、あなたが、今、イエスを信じていれば、世の終わりはまだ来ないと私は思います。一人、この世に一人でいいのです。イエスキリストを信じていれば、我々の行っている礼拝、信仰的教会活動、福祉活動は終わらいと思います。どんなにこの世が危機的な状態でも、希望があり、苦難から逃れられ、喜びかありあます。大丈夫です。高齢化教会、高齢化社会もも乗り切っていけると私は思います。むしろ、高齢者で礼拝している奇跡、高齢者でもやっていける奇跡的社会、それを主の栄光として気付きたいものです。若い人に来て欲しいと思うならば、若い信仰者が与えられますよう祈りましょう。そうすれば、必ず、与えられると思います。神にはできないことはありません。信仰があれば山も動いて海に入ります。その場に最も相応しい出来事を与えて下さっているのだと思います。それが本日の聖書の場合は災害や人間のすさみ、人間の滅びの最低最悪な出来事の場合のことをいっているのでしょう。誰一人、この地に信仰に留まるものがいなくなった、その際も、新天新地をイエスが与えて我々は救われるのです。
そうでなくても、われわれの信仰によって、この地に天とにたような出来事を顕わすことが可能で、しかも、苦しみから救われ、喜びが与えられていくと思います。その希望は、信仰に留まるもの一人でこの地に天国をもたらすことができるという、壮大華麗、人智を遥かに超える恵みです。
そんな素晴らしい信仰をも私たちに、与えて下さった、イエス様に、与えて下さっているイエス様に、感謝して歩みたい、この1年でありたいと思います。
祈ります。