マタイによる福音書24章32節から35節
ここでは世の終わりについて話しています。
テレビ番組にもはじめがあり、終わりがあります。
入院生活にも初めがあり、終わりがあります。
学校生活にも初めがあり、終わりがあります。
仕事にも初めがあり、終わりがある。
これまでの歴史的な出来事にも、
例えば、ローマ帝国の初めと終わりがある。
日本の国にも邪馬台国から奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成と初めと終わりがある。
戦争にも初めと終わりがある。
人間の一生も生まれて そして、死まで はじめがあり、終わりがあるように思えます。
この世もなかなか終わらないことを示しているように思います。
これらのことが起こるまでは、決してこの時代は終わらない。
これらのこととは、終末の徴として述べられたような、
イエスの名を名乗るものが大勢顕われる
自分が救世主だといって多くの人を惑わす、
戦争や戦争の噂が聞く
民は民に国は国に敵対して立ち上がり、
方方に地震や飢饉が起こる
キリスト者は苦しみを受け、殺される
キリスト者はあらゆる民に憎まれる
多くの人が躓き、互いに裏切り、憎み合うようになる
不法がはびこり、多くの人の愛が冷える
最後まで耐え忍ぶものは救われる
御国のこの福音はあらゆる民の証しとして、全世界に述べ伝えられる。
それから、終わりが来る。
世界のはじめから、今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
神がその期間を縮めてくれなかったら、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人のために期間を縮めて下さる。
その苦難の日々ののち、たちまち、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのをみる。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは天の果てから果てまで、彼によって選らばれた人たちを四方から呼び集める。
はっきり、言っておく、これらのことが起こるまではこの時代は決して滅びない。
と言っています。この時代とはおそらく、今我々が生きている時代でありましょう。
太陽は暗くなり、月は光を放たず、天体は揺る動かされる・・・
天体は今膨張していると言われ、ゆり動いていると言えばそうなのでしょうが、かなり、天体が揺り動かされれば、もう、宇宙が安定せず、人間が住めるような状態にはないような感じで、世の終わり、滅亡ということになりましょう。
最後まで永遠に滅びないものは、イエスの言葉であるということです。
イエスの言葉とはいったいなんなのか?
「山上の説教で言ったことばなのか。貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」などということなのでしょうか。
「敵を愛しなさい」と言った様に教えたことなのでしょうか?
「あなたの罪は赦された」とか、「あなたの信仰があなたを救った」「本人が罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に顕われるためである。」などと庶民や生涯のある人や病人へと語ったことばのことでしょうか。
律法学者やファリサイ人を偽善者と批難した言葉でしょうか。
今話しているようなこと、十字架に掛けれられ、復活し、再臨するということなのでしょうか。ヨハネの黙示録のように天使を通して語られたことばでしょうか。
おそらく、それらすべてのことなのでしょう。
さらに旧約聖書はイエスのことを予言していますし、イエス様も「神と隣人を愛する」ことは、「旧約聖書はこの2つを元にしている」といっていますから、旧約聖書自体も、イエスのことばに含まれるでしょう。
さらにイエスが弟子たちに託したことば、パウロの手紙、弟子達の書簡、さらに、現代いきている我々が語る、イエスの言葉さえも、滅びない、ということを話しているように思います。
滅びる、終わる、とはいったいどういうことなのでしょう?
考えて見ますと、人間が取り敢えず、考えた概念ではないでしょうか。
いま、世界中で人々が、病に倒れたり、争いに巻き込まれたり、仕事がなかったり、自分の弱さに負けたり、もうだめではないか、と思う現実に襲われています。しかし、そうなのでしょうか。終わりなのでしょうか。
人が死んだら終わりなのでしょうか?
物事に終わりがあるというのは本当なのでしょうか?
形ある物が滅びるとは本当のことなのでしょうか?
テレビ番組にもはじめがあり、終わりがあります、が、始まりと終わりは人間が勝手につけたものではないのではないでしょうか。番組の作られた動機や放送終了した後、人々に記憶に残ったこと、 行動を変化させたり、させなかったりしたこと、それによって、物質的な変化が起こったことなどを考えると、どうも、初めと終わりとは人が取り敢えずつけたものに過ぎないように思います。
入院生活の初めがあり、終わり、
学校生活の初めがあり、終わり
仕事の初めと終わり
これまでの歴史的な出来事にも、
例えば、ローマ帝国の初めと終わり。
日本の国にも邪馬台国から奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成と初めと終わり
戦争にも初めと終わり、
人間の一生も生まれて そして、死まで はじめがあり、終わり、
これらは、実は人間が勝手に決めている初めと終わりなのではないのでしょうか。
イエスはヨハネの黙示録で、イエスが初めであり、終わりであると語っています。
これはどういうことなのでしょうか。
初めも終わりもイエスに大きく関わっている、初めにも、終わりにも永遠が関わっているということだと思います。おそらく、それは、愛であり、救いであり、我々が本当に求める、素晴らしい世界が実現することではないでしょうか。
ヨハネの黙示録の21章1節から8節をお読みします。
ヨハネの黙示録
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
イエス・キリストはわたし達と共にいて下さる。しかも、無償で。そして、永遠にいて下さり、悲しみも嘆きも労苦もない世界を与えてくださるといっています。そのようなイエスがおくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、を滅ぼそうと言う意志を示してくださっています。
私もそういうところがあるので、これは恐ろしいことばですが、よく考えてみるとありがたいことなのです。
わたしもそのようなものになってはいけない、と、今説教を通して、思うわけです。私たちが生きていてすべきことはこれなんだということが分かるのです。わたしたちは、この不況のときでも、何もかにもが壊れてしまいそうな時でも、臆病にならずに、希望をもって、前に向かって暮していきたいと思います。我々は必ず祝福の中にいることができるのだという信仰を失わないで暮して生きたいと思います。忌まわしいものや人殺しにならないように、平和と喜びを作り出すように努めていきたいと思います。淫らな行い、魔術的なことに期待せず、清く、みなが納得がいく当然のことを地味にこつこつとしていきたいと思います。偶像にも惑わされず、正直に罪をつい改めていきたいと思います。なぜなら、このイエスのことばは決して滅びないからです。
滅びないイエスの言葉を教会を中心に、これからもこの礼拝を通しても学び、命の糧としていきましょう。
お祈りいたします。