このように、外側と内側が違う、という偽善は私たちにもよくわかります。そして私たちは誰でも、多かれ少なかれ、そういう偽善的なところを持っていると言わなければならないでしょう。人の前ではいいところを見せている、ということは誰にでもあります。またそれはある意味で、必要なことでもあります。内心の思いを全て人の前でありのままに表してしまったら、人とまともにつきあっていくことは出来ません。出会い、関わりを持つ人を次から次へと傷つけて回ることになってしまいます。先日の教会修養会で学んだ「ハイデルベルク信仰問答」には、私たち人間は生まれつき神と人とを憎む傾向にあるのだということが教えられています。そういう罪人である私たちが、その罪の思いをストレートに表してしまったら、それこそ修羅場です。心の中に悪い思いや罪への衝動を誰でも持っています。それをいかにコントロールして、人を傷つける言葉や行動を控えることができるか、そしてむしろ人を愛する者として生きることができるか、ということが私たちの戦いなわけで、それはある意味では、罪の思いを持ちつつも、愛に生きる者を演じていく、ということなのです。それは人を欺くことではなくて、むしろ自分の中にある罪との戦いです。その戦いにおいて私たちは、自分の内側にある思いとは違う、善い者として生きることを願い、それを外側に表していくのです。そういう意味で私たちは、善い人間として生きようとする時には必ず偽善者になるし、またそれは必要なことでもあると言えるのです。

預言者の墓を建てる
 従って、この偽善者の不幸ということにおいて、内側と外側の違いということにあまりこだわっていくべきではないと思います。主イエスがこれによって語ろうとしておられることは、むしろ次の29節の、七つめの「不幸」を読むことによってはっきりしてくると思うのです。そこには、「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている」ということが語られています。このことが、外側を美しく飾るが内側は汚れている偽善の現れだとされているのです。それはどういうことでしょうか。預言者の墓や正しい人の記念碑というのは、何のために建てたり飾ったりするのかというと、30節にあるように、「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」と言うためです。つまりこの預言者や正しい人は、神様のみ言葉を語り、また正しい主張をしたために、人々に憎まれ、迫害されて殺された、そういう人々です。その人々の墓や記念碑を整えることによって、自分は彼らを支持する、自分なら彼らを殺したりはしなかった、神様のみ言葉に従い、正しい主張に耳を傾けただろう、ということを、やはり人に向ってアッピールするのです。しかし主イエスはそのことを31節で「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している」と言っておられます。殺された預言者や正しい人の墓や記念碑を建てることは、自分が彼らを殺す者と同類、仲間であることを証明していることだ、と言っておられるのです。それはどうしてでしょうか。墓や記念碑を建てることは、その人たちを尊敬し、その思い出や教えを大切にしようとする思いの現れです。どうしてそれが、彼らを殺すのと同じことになってしまうのでしょうか。

墓とは
 このことを考えるためには、墓や記念碑というものの持つ意味をもう少し深く考えなければなりません。それは表面的には今言ったように、昔の人を尊敬し、重んじるためのものです。けれどもその裏には、こういう思いも働いているのではないでしょうか。それは、墓や記念碑を建てることで、その人のこと、その教え、業績、それを決定的に過去のものとしてしまう、過ぎ去った昔の事柄にしてしまう、そしてそれを今現在の自分の生活とは切り離してしまう、ということです。墓というものはそういう役割を負っていると言うことができます。遺体を、私たちで言えば遺骨を、丁重に墓に納める、そのことによって私たちは、愛する肉親や、親しい者の死という悲しみに一つの区切りをつけ、新しく歩み始めるのです。遺骨をいつまでも手許に置いて、遺骨に語りかけながら生活するとすれば、それは亡くなった人の思い出にいつまでもしがみついて生きることであり、そこから新しく歩み出すことができないことになります。それを墓に納めることによって、愛する者の死の現実を受け入れ、悲しみにけじめをつけて、私たちは新しく生きていかなければならないのです。墓というのはそういう働きをしている。そのために墓が必要なのです。家族の墓を建てることにはそのような意味があるのです。しかしそれが、預言者の墓を建てるとなるとどうか。そこで起ることは、預言者をもう過去の人、過ぎ去った人として葬り去り、自分の現在の生活と直接関係のない存在にしてしまうことです。そしてそれは、預言者の語った神様のみ言葉に対してそうすることを意味します。神様のみ言葉を、過ぎ去った昔の、歴史上の事柄にしてしまい、それを大切にするようなふりをしながら、実は今の自分の生活とは切り離してしまう、そのみ言葉によって現在の自分が変えられたり、道を正されたりすることが起らないようにしてしまうのです。主イエスがここで見つめておられるのはそういうことでしょう。律法学者、ファリサイ派の人々は、昔の預言者を大切にするような外見を装いながら、実は神様のみ言葉を自分への言葉として聞こうとしていないのです。自分がそれによって変えられることを頑なに拒んでいるのです。そこに彼らの、外側と内側が違う偽善があるのです。それは彼らだけの話ではないでしょう。私たちも、聖書という書物をそのように扱ってしまうことがあるのではないでしょうか。立派な聖書が家の本棚に飾ってあるけれども、ちっともそれを読もうとしない、というふうに、聖書を敬して遠ざけることもあるでしょう。いや自分は、飾っておくだけではなく、通読運動のスケジュールに従って毎日読んでいる、という人もいます。しかしその場合でも、それを本当に「神の霊感によって成」った「教会の依るべき唯一の正典」、「神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範」として読んでいるだろうか。むしろ、「聖書を一度も通読したことがないのではクリスチャンとして格好がつかないからなあ」というぐらいの思いで読んでおり、そして「聖書も読んでみると案外面白いもんだ」なんて思っているとしたら、それは、聖書を一つの昔の書物として読んでおり、その聖書を通して今私たちに語りかけておられる神様のみ言葉を聞こうとはしていないと言わなければならないでしょう。

み言葉を拒むなら
 そしてそのように、今自分に語りかけておられる神様のみ言葉を聞く姿勢を失ってしまうところに何が起るかということが32節以下に語られているのです。34節に「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと負い回して迫害する」とあります。昔の預言者の墓や記念碑を建てて敬っているように見える者たちが、今彼らにみ言葉を語るために遣わされた人を迫害し、殺すということが起こるのです。それは、神の言葉が、過ぎ去った昔のちょっといい話、教訓になる話である間は尊重するけれども、いざそれが現在の自分の生活に影響を及ぼし、自分の罪を指摘して悔い改めを求め、自分が変えられることを求める、そういう言葉として語られる時には、それに耳を塞ぎ、徹底的に拒否するということです。主イエスが十字架につけられて殺されたのも、そういうことによってだったのです。35節には、「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」とあります。何の罪もなく、ただ兄カインの妬みによって殺されたアベル、また「聖所と祭壇の間で殺されたバラキアの子ゼカルヤ」、これは歴代誌下の24章20節以下のエピソードで、正しくは「神殿の庭で石で打ち殺されたヨヤダの子ゼカルヤ」であって、主なる神様に背いているユダの人々に警告を与えたために殺された人ですが、それらの、神様に従ったのにそのことで恨まれて殺された人々全ての血の結果が、今み言葉を拒んでいるあなたがたにふりかかってくる、ということです。これは具体的には、まもなく起る、ローマ帝国によるエルサレムの破壊、神殿の崩壊を意識した言葉だと言えるでしょう。しかしそういう歴史的事情を離れて私たちはこれを、私たち自身に対する警告として受け止めるべきです。神様のみ言葉を、過去の、過ぎ去ったものとしてしまい、今現在の自分に対する語りかけとして聞こうとしないならば、今の自分の生活、生き方がみ言葉によって新たにされ、変えられていくことを拒むならば、私たちもまた、神様のこのような怒りの下に置かれるのです。

エルサレムのための嘆き
 37節以下には、エルサレムのための主イエスの嘆きの言葉があります。そのエルサレムとは、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者」です。つまり34節に語られていたのと同じく、今自分に対して語られている神様のみ言葉を聞こうとしない罪が指摘されているのです。そのようなエルサレムに、主イエスは恵みのみ手を差し伸べておられます。それが37節後半の「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」というところです。親鳥が翼を広げて雛をその下に集め、守りはぐくむように、主イエスは人々をご自分のもとに招いておられるのです。このみ言葉の背後には、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編17編8節があります。「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」という祈り願いです。神様が、ご自分の民を、その翼の陰に隠して守り、養い、はぐくんで下さる、その恵みが、神様に遣わされた独り子イエス・キリストにおいて実現しているのです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」とあります。神様がみ言葉を語り伝えるために預言者たちを遣わし、そして今やその独り子をすらもこの世に遣わしてみ言葉を語りかけておられるのに、その現在の恵みに気づかず、それを受け入れようとしない。今自分に語りかけられている主イエスの言葉に耳を傾けようとしないのです。そのようなエルサレムは見捨てられて荒れ果てる。そういう神様の裁きが予告されています。それは具体的には先ほど申しましたように、ローマによるエルサレムの破壊です。しかし私たちはこれを、私たちに対するみ言葉として聞くべきでしょう。今語りかけておられる神様のみ言葉を聞かないならば、私たちもこのエルサレムと同じことになるのです。

主の名によって来られる方
 この神様による裁きの予告に、主イエスは不思議な言葉をつけ加えておられます。39節です。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」。これはいったい何のことでしょうか。よくわからないみ言葉です。しかしわからないながらも、ここには、彼らエルサレムの人々、つまり今主イエスを受け入れず、神様の語りかけを聞こうとしていない人々が、「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時が来る、と言われていることはわかります。そしてこの言葉は、21章の始めのところで、主イエスがエルサレムの町に

罪:私は罪人であると告白せずおれない。
牧師とはこんな罪人でよいのか。性欲があり、姦淫、猥褻、好色ものである。こんな私をなぜ神は牧師とされるのか・・・恥ずかしい。これでいいとは思いません。偽善者とはだれか、それは、言うまでもなく自分であり、イエスのことばは私へと突き刺さってくる。「清栄、エロサイト見ていながら、他の人には、清めが必要だと言っている、君は不幸だ。」と語りかけてくれているのである。牧師となり、罪を犯し、牧師としては失格である。もはや、自分では立つことができなくなった。委ねる、神、イエスに委ねるしかなくなっている。

律法学者は自分達を偽善者とは思っていなかった。

私はここで、宗教指導者の意識の違いで、この世に宗教指導者として位置づけられるかどうかが決まってくると思うのです。
つまり、自分が偽善者であるということを認め、悔い改めていかなければ、宗教指導者にはなれない。イエスからは認められないということでしょう。
イエスは偽善者になってはいけないとは語ってては、いない。ルカでは偽善に注意せよ、ということは話されている。つまり、【偽善】に気がつくこと、自分の偽善に気付くことをイエスは求められており、パリサイ人や信仰の指導者は、徹底的にイエスに追及され、お叱りを受けている。その後、それを認めるか認めないかが、イエスの信仰の指導者となりうるかどうか、なのだと思います。