マタイによる福音書22章41~46節 どうしてメシアがダビデの子なのか?
ダビデの時代、ダビデは主がもう救い主である事を知っていたらしい。イエスという名前は分からなかったが、ダビデが信じている主が救い主であったことは、ダビデが良く知っていたようです。詩篇の110編でダビデが主をメシアと考えているとイエスは指摘しますし、律法学者もそれを認めるわけです。
神は霊であり、神を礼拝するものは霊と真理をもって礼拝しなければならない(『ヨハネによる福音書4章23節から24節』)とありますように、神、救い主は霊であるわけです。
「どうしてメシアがダビデの子でもあるのか」という問いが
ダビデといいますと、紀元前1000年くらいの人ですね。今から3000年も前のことです。そのダビデが信じている神と今私たちが信じている神は同じものなのです。眼に見えるものは変わりますが、『霊』というのは普遍の存在なのかもしれません。時空を超え、支配されている『霊』である神がおられるということですね。
では、なぜ、イエスがこの地にいらして、十字架に掛からなくてはいけなかったか?
ダビデの神『霊』のままでは解決できなかったのか?
すでに救い主であり、贖い主であり、人を滅ぼさないで、復活させる方である主。何ゆえ、十字架につくためにこの世においでになったのか?
神の過分の業だと(余計というか、やりすぎのように)、私には、思わされます。神はそこまでしなくてもよかったと思うのです。人智を超えた神の業とはまさしくこういうことだったのでしょう。
そうまでして、神は我々にしたいことがあった。
それは、我々へのメッセージなのではないでしょうか?
イエスの十字架はわれわれへの言葉,神からの言葉として理解することができるのではないでしょうか?
神は知らせたかったのだと思います。どんなに我々を愛しているかを知らせたかったのだと思います。神からのイエスの十字架と復活という一方的な啓示を与えられたのです。神の愛を我々に示したのです。
さて、この『霊』『聖霊』なのでしょうが、どういうことなのでしょうか。この霊を受けると、『罪について』『義について』『裁きについて』はっきりすると書かれています。この『霊』は『敵を愛すること』を勧め、導き、守っていく力を与えるものでもあろうと思います。罪についてというのは、イエスを信じないこと『敵を愛さないでいいと思うこと』、義については、イエスが父の元に行き、もはや我々がイエスをみないこと、裁きについてとは、この世が断罪される事、であるという事が分かるとされています。『敵を愛する事』という視点から見ると理解できるないようかもしれませんね。
イエスの十字架というのは、この『神の愛』『敵を愛する愛』の宣言であり、契約なのです。人間をとことん尊重するという宣言なのです。本当に罪人で恥ずかしい自分です。何も出来ず、悪を思い、神の前に立てないような自分です。しかし、このような私をも決して見捨てず、尊重してくれているというのです。本当にありがたく思います。それが神自らが私の罪のために、十字架にかかって死んだということです。なんとも申し訳ない出来事です。私は死んで当たり前の存在ですのに、救って、救い主イエスキリスト『神の愛、敵を愛する神の愛』と共に生きていくことができるようにしてくだっさったのです。
今回も話は、宮清めを行った権威は誰の権威かの答えを示したものでもあったようです。ダビデのメシアはダビデの主であり、さらにダビデの子孫にも生まれるイエスでもある。『霊的権威』、メシアの権威、救い主の権威、神の愛、敵を愛する権威で、私は宮を清め、パリサイ派や律法学者やサドカイ派や様々な宗教指導者たちと議論し、回答して来た。あなたがたは、主、メシアが何であるか、『敵を愛する事であると』知らないのではないか?聖書知識はあるが、神については、敵を愛する神の愛については知らないのではないか。人間を本当に愛する事、つまり、尊重することは知らず、実行していないのではないか。人を尊重する事をしていれば、ダビデがなぜ、メシアを主と呼んでいるか、答えられるはずだ、ということを言いたかったのだと思います。
律法で最も大切なことは、前の一節にもありましたように、
神と人とを愛することです。
それは、隣人と友となることでもあります。
それが、律法をまっとうすることになるのです。
神信仰となるのす。
唯一の神を信じることになるのです。
それは、なぜかといいますと、
コリント信徒への手紙3章16節「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分の内に宿っていることを知らないのですか。」というようにパウロがいっています。神の神殿、教会とは一人一人であり、尊いのです。一人の人を愛する人は、同時にすべての人を愛しているともいえるのだと思います。
イエスは約2000年前の出来事として十字架で私たちに愛を示されました。しかし、それはその時だけの、出来事としてあるのではなく、神の愛、敵を愛する神の愛として、今も、過去にも、未来にも同じように「ある」ものなのでしょう。
その事を、今日のイエスの質問は指摘しているのだとおもいます。
『敵を愛する愛』と共に自分はいると聖書は語ります。『敵を愛すること』を
私は体に宿しているというのです。
そう気付くとき、神の愛、敵を愛する愛をもって、尊重をもって、隣人の友となることができるのではないでしょうか。祈ります。