マタイによる福音書22章34から40節
隣人を自分のように愛するとは
以前にも話したことがあるかと思いますが、日本では自殺者が年間3万人もいることに驚かされます。つい、数日前に私の知り合い2人が自殺しました。気仙沼市でも今年度は自殺予防の講演会が保健師を対象として実施されているようですし、東北地方の各県でも、自殺予防のプロジェクトを組んで、自殺予防に対応しているようです。
また、最近、アンジェラ・アキという歌手が手紙という歌を作詞、作曲しまして、中学校の合唱コンクールの課題曲になって、十万人の方々に歌われたそうですが、この歌も、自分の命を保てず、ぎりぎりのところで生きている方々への、願い、幸いに生きていってほしいという、祈りが込められているように思います。その歌が今とても流行っているというのです。それだけ、人々が生き辛くなっているということではないでしょうか。そして、その歌に共感を多くの方々が得ているということだとおもいます。
その歌はだいたい以下のようなことです。
拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう
十五の僕には誰にも話せない 悩みの種があるのです
未来の自分に宛てて書く手紙なら きっと素直に打ち明けられるだろう
今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて
苦しい中で 今を生きている 今を生きている
拝啓 ありがとう 十五のあなたに 伝えたい事があるのです
自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる
荒れた青春の海は厳しいけれど 明日の岸辺へと 夢の舟よ進め
今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど
苦くて甘い今を生きている
人生の全てに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて
Keep on beliving
負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう 今を生きていこう
拝啓 この手紙読んでいるあなたが
幸せな事を願います
さて、本日の聖書の箇所は、現代社会の自殺問題へ、あるいは、他者を否定する、殺人へと向かう道への、予防、禁止、ブレーキとなる箇所でもありましょう。この聖書の箇所を知っているが上に、自殺や殺人を思いとどまる方々もいるかもしれません。現代社会にはとても必要な言葉ですね。
「律法の中で最も重要な掟は何ですか」という問いは当時のユダヤ人の間や律法学者の間では、しょっちゅうなされていた議論だったうようです。365個の禁止の命令と284の実行しなさいという命令の中で、何が最も重要な掟なのかという議論があったそうです。
「こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これを最も重要な掟とすることは、律法の専門家としては、正解とされていました。これは、申命記6章5節にあるのですが、この前後、4節から9節まで読んで見ると面白いですね。ユダヤ人は、必死に、ここの重要なことを強調していますね。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」と節で注意を促しています。そして、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と語ります。
そして、「今日あたしが命じるこれらのことばを心に留め、子どもに繰り返し教え、家に座っている時も、道を歩いている時も、寝ている時も、起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして、自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の門にも書き記しなさい」とあります。
こんなに真剣にこの言葉を伝承していたようです。ユダヤ人なら朝と夕、必ず、この箇所を唱えるような習慣もあったようです。
イエスはこれにもう一つの掟を加えました。それが「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉です。これは、レビ記19章18節にあることばです。これも同様に重要だといいます。「隣人を自分のように愛する」も、心に留め、子どもに繰り返し教え、家に座っている時も、道を歩いている時も、寝ている時も、起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして、自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の門にも書き記しなさい」というくらい重要だと、イエスは加えて話されました。
この2つ、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」
この2つの掟が、律法800近くある中で最も優れている、重要だということが、イエス流の旧約聖書の解釈だったと思われます(律法全体と預言者、というのは旧約聖書を指す言葉です、から、イエスの旧約聖書の解釈の一面がここで示されています。)。
ヨハネの福音書には、新しい掟、として、「互いに愛し合いなさない」という掟になってしまいます。それのみになってしまい、「互いに愛し合うこと」で、「神を愛した事と、同じようになるのだ」と解釈されるような事を話される訳です。
さて、本日は、このように旧約聖書全体のもとになっていることで、我々にイエスが特に強調して命令している、「隣人を自分のように愛する」ということについて考えていきたいと思います。
レビ記19章18節をみますと、「隣人を自分の様に愛する」の前に「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。」とあって、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。復讐してはならないとか、民の人々に恨みを抱いてはならない、とありますように、どうも。「隣人」とは、復讐したいと思っていたり、恨みを抱いている者を指しているようです。
自分自身を愛するように隣人を愛するとは、敵を愛するとか、自分を迫害する者のために祝福を祈る(ローマ12:14)というようなことのようです。
自分自身を愛するように敵を愛する、ということが、自分を愛するように隣人を愛するということになる、敵を自分のように愛するというのが、隣人を自分のように愛するということになるのでしょう。
さて、次に「自分を愛するとはどういうことなのでしょうか?
ある信仰の先輩が自分を愛することはとても難しいことだと話されておりました。また、現代社会の中では、自分自身を愛せない人が多いのではないでしょうか。死んでしまいたいと思う人、自分には生きる価値がないと思っている人、自分は誰からも必要とされていないと思うこと、これが人間の最大の苦しみであり、不幸だとマザーテレサが語っていますが、そのような苦しみにある人間が多く暮らしているのが現代社会でもあるように思います。そのような苦しみにある自分をいかに自分が受け止め、それでも、なお、生へ喜びをもって、希望をもって、生きていくことができるのか、喜びや希望を信じて生きていけるのか、そういう問いを持っているのも現代です。
その回答の一つが、今日、読んだ、アンジェラ・アキの手紙の歌詞にあると思いました。「今、負けそうで、泣きそうで、消えてしまいたい時は、自分の声を信じ、あるけばいいの、」と歌われていますように、自分の声、を信じる、ということが上げられています。この自分の声というのは、神の声、かもしれませんが、この声を信じて、歩き続ける事が、私たちに、喜びや、希望を抱かせ、暮らし続ける、神秘なのかもしれませんね。
さて、この声、自分の声、はどんな人にも、聴こえるのでしょうか。
おそらく、この声は苦しみを体験しないと、聴こえない声、なのかもしれません。
私事で申し訳ありませんが、こんな私でも、生きていけるのだろうか、と思うことがしばしば、ありました。
そのたびごとに、その声を聞いてきたように思います。
私も20歳の時、怪我をして首の骨を折ってしまいました。そのため不自由な体になってしまいました。自分では生きていけないんじゃないかと思いました。しかし、何か大きな圧力みたいな感じを受けて、「誰か支えてくれる人がいるんじゃないか、そう信じていけ」というような声が聞こえたようなきがしています。その声を信じ今までくらして来ましたし、これからも暮らしていこうと思っています。そして実際、支えて下さる人がいらっしゃいました。
自分を愛すると言うことは、否定したい自分、苦しみにある自分に与えられる、自分の声を信じて、従って行く事では、、ないのではないでしょうか。
隣人を自分のように愛するということは。
敵を愛すること、迫害するものの祝福を祈ること、
しかも、敵や、迫害する者が、苦しんでいる時に、支えてあげることなのではないでしょうか。特に敵や迫害するものが、もう、生きる値なしと絶望しているような時に、支えてあげることなのではないのでしょうか。
イエスは、自分を愛するように隣人を愛せ、と命じております。さて、そんな事ができるのでしょうか。敵や、自分を迫害する者を愛したり、祝福を祈ったりすることができるのでしょうか?
もし、これができたら、平和で自殺や殺人はなくなるでしょう。
現実からみるとできない世の中です。
しかし、聖書からみると、私はできると回答させて頂きます。
それは、コリント信徒への手紙Ⅰ3章16節、6章19節にありますように、私たち人間は、人間の体は、神が宿る、聖霊が宿る神殿であるといっているのです。神が私たちに宿っているとするなら、イエスがしたように、敵である隣人を愛する事、迫害する者のために祝福を祈ることは、可能なことでありましょう。神にはできないことは何もないのですから・・・
祈ります