マタイによる福音書21 29-31
信仰者として生きる
信じるものは救われる、これは、信仰者でなくても、一般的に言われている言葉です。
しかし、イエスは救いを成し遂げた。最終的なことを、極端なことを言えば、信じなくとも救った、ということが起こってしまった。信仰者はここで、信仰をすることに、虚脱を覚え、救われるために信じているのではないか、と、気の抜けたサイダーのように、その緊張と喜びを失ってしまうのです。全員が救われるのら、なぜ、信仰をしていく必要があろうか、伝道する必要があろうか、そういう疑問に落ちってしまうのが、万人救済を思うキリスト者の問題です。
キリスト信仰は、日々死ぬことにある、というのがパウロの復活信仰だったのだと思います。救いが完成したあと、問題は生きている間の生き方の問題となるのでしょう。十字架に従う道、十字架を担う道、苦難を伴う道をキリスト者は歩まされるように思います。日々死ぬとは、イエスの復活に頼る事です。神殿である体が肉ではなく、聖霊によって生きることです。
さて、キリスト者と生きること、とは、どういうことになるのでしょうか。ガンジーはキリスト・イエスについては非常に興味を持ち、尊敬されたようですが、キリスト者にあったら、幻滅を感じたと話されました。本当に恥じ入る事だと思います。自分、自身も反省します。そして、また、なぜ、私のようないい加減なものが神の証し人として世に遣わされているのか、不思議でなりません。神の伝道にとってはマイナスだと思います。
しかし、キリスト者の生き方は日々死して生かされる、ということでした。
ガンジーからの非難、キリスト者への非難をまともに受けたとき、キリスト者はガンジーの前に信仰者として、生かされるように思います。
ガンジーとキリスト者を並べて想像してみてください。ガンジーはいいます、「君はキリストの証しに相応しくない、十字架につこうともしない、教会へは社交の一つとしていっている、誠に不謹慎きわまる、偽善者もいいとろこだ。キリストを伝えるには余りにも怠惰で、傲慢、無知で、力なし、お荷物だ。信仰止めた方がいい」そういわれてごもっともです。と言って、打ち砕かれる。自己が否定される。そして、己も自己否定する。自分を支える物が何一つなくなる。
このとき、です。このとき、この人は死んだのだと思います。この人に聖霊が働き、御業が成される、成された、伝道された、聖霊が働いた、のだと思います。信仰者として生きたのだと思います。
それゆえ、信仰者への非難、否定は、信仰者としていきる糧となることを思い知らされます。
宗教指導者へは宗教指導者への非難、否定がかれを逆に信仰指導者としていかしめるのです。
日々死んで新たにされる恵み、キリスト信仰の核がここにあるのだと思います。
イエスの十字架と復活は、死と生は、私たちに永遠の命を与えたということです。
「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という箇所もありますね。そして、「自分の命を愛する者はこれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と書かれています。日々死んでいくキリスト者の信仰者としての生き方が、聖書に示されています。
それゆえ、信仰者として生きるには、日々の死が必要になってきます。これは、おかしい話ですが、聖書を読んで見ますと、やはり、そうです。
さて、マタイの福音書の宮清めから、延々と25章まで、律法学者パリサイ派の宗教指導者や弟子たちに、非難、否定をバシバシ語られますが、これが、信仰者として生きるための具体的な日々の死に方です。どういうふうに死ねばよいのかが書かれているわけです。そして、その言葉を、アーメンと受けたときに、聖霊が働く、神の業が生じる、信仰者として証し者となる、死んで生きる恵みの中にあると言う事になると思います。
本日の聖書の箇所をみてみましょう。二人の息子のたとえを示していますね。親が一人の息子へ行って「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って同じことを言うと、「承知しました」と答えたが、出かけなかった。この二人のうちどちらが父親の望み通りにしたか」とイエスは祭司長や民の長老(信仰者の指導者)に聞きます。すると、彼らは『兄のほうです』と答えました。さて、ここから、イエスの毒舌、宗教指導者への非難、否定が、始まります。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あななたち(宗教指導者たち)より、先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたたちは、彼を信じず、徴税人や娼婦は信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して、彼を信じようとしなかった」というのです。宗教指導者信仰心がない、ヨハネの義の道を信じない、その信仰は娼婦以下である。といいます。
真理を見極めたり、信仰を培ったり、指導者として立つには、娼婦や徴税人の方が、祭司長や長老たちよりはずっと、役に立つと言う事を語られています。
「宗教指導者は信仰的には娼婦以下」これがイエスの非難、宗教指導者への非難、否定です。いない方がましだとさえ語るのです。さて、この宗教指導者、ここで、ごもっともと受けると、そこで、死が生じます。宗教指導者として自分は不必要な者、役立たず、ここで、宗教指導者の生命は消え去ります。
しかし、です。しかし、このとき、もし、このイエスの宗教指導者へのことばを宗教指導者が受け入れ、アーメン、ごもっとも、では、イエスの御心のままに、と祈ったなら、その宗教指導者は御業を現す事になると思います。死して生きるとは、このようなこと。宗教指導者は娼婦以下の信仰である。これを認めたとき、そのときのみ、宗教指導者は死に、そして、宗教指導者として生きる。これが日々、死んで生きるという生き方、です。ここでは宗教指導者のことを話していますが、信仰者すべの事だと言い換えてもいいです。
「自分の信仰は娼婦よりも劣る、貧しく、穢れた信仰だ」さて、こう、思い、アーメンと思えるでしょうか。その時、信仰者として、否定し、つまり、死に、と同時に聖霊により、信仰者としていきることができるのです。敬虔な信仰者、とよくそういわれるのを聞いたことがありますよね。これには注意した方がいいですよ。
イエスは我々の信仰を娼婦以下の不信仰だと非難、否定しているのですから。
もし、自分の信仰が娼婦以下だということを受け入れる事が出来るなら、それは、ある意味、信仰者としての死であり、神の業の出現です。「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に入る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)
とありますように、イエスの言葉に従った、死は、決して、死では終わりません。多くの恵みが生まれ、平和や神の愛が実現するように思います。
本日の箇所から次のようなことがいえると思います。
私の信仰は娼婦よりも劣る、娼婦の方が優れている、そのことを自分の信仰として受け入れ、私たちと共にいる、聖霊による御業を期待するものです。そのことによって、私は信仰者として生かされ、さらに、信仰の継承者を生み出されることを、娼婦以下の私の信仰に、十分期待できるのです。
祈ります