マタイによる福音書21章23節から27節 権威
 
権威という言葉の意味には『他の者を服従させる威力。「行政の―が失墜する」「親の―を示す」2 ある分野において、知識や技術がぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー」というようなものがあるようです。

権威といいますと、たとえば、医者は権威者ですね。何の権威かといいますと、診断して、治療法を選択することなんですね。ですから、素人の私などに診断名を言われたりしますと、すごく、自分の権威、威信が傷つけられた様に感じて不機嫌になったり、怒ったりするんですね。わたしも生意気なのでだいぶ怒られました。権威というのは、その人や職種に与えられた特許で、その特権を頂いた資格者以外は、なしえない行為、業務独占をなす事が出来る力,資格ということになるでしょう。

 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老達が近寄ってきて言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからのものだったか。天からのものか。人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』といえば、『では、なぜ、ヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群集が恐い(ルカでは、「群集が石で我々を打ち殺すだろう」とある)。皆がヨハネを預言者だと思っているから」そこで、彼らはイエスに「分からない」と答えた。そるとイエスも彼らにこたえた。「それなら、私も何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

イエスはエルサレムに迎えられたとき、かなりの群集がイエスに注目します。ほとんどすべてのの群集がよきにつけ、あしきにつけ、イエスを救い主と信じているように思われます。
ここでは、なぜ、あなたは、宮清め、宮に許可を得て、商売をしている人達を追い出したり、神殿で人々に教えるようなことを、無断でしているのか、という意味合いとも受け入れられます。神殿管理者になぜ断らないのか、とか、手続きの面では、もっともな話です。「イエス・キリスト」はナザレの大工のせがれ、噂では聞いていたが、神以外にしてはならない、越権行為をしているように思われます。信仰宗教のカリスマではないか。『何の権威で行っているか答えよ』という質問は当然でてくるでしょう。医者ではない人が患者を診断し、治療をしていたら、誰でもおかしいと思うでしょうから。祭司長や長老たちの立場も分からないことはないです。専門家というのは、それなりに自分の仕事の範囲に責任があります。しかし、ある脳外科医の話。私がピック病のような状態ではないかといったら、怒られた。それから、自分もSTとして、言語障碍名や対応の仕方を行うことについて他からクレームがつくと、むかっとするとか、いろいろ、あるわけです。しかし、大事なのは専門家の権威、裁量権の維持ではないはずです。病んでいる人へどういうようにしたら、最善のアプローチができるか「だけ」を考え、進んでいくことなのでしょう。こういうプライドのぶつかりと言うのはよくある話です。
しかし、祭司長、律法学者や民の長老、指導者たちは、このとき、そういうプライドや権威のことなどを考えていたのではありません。群衆が子供までもが、イエスを救い主と信じるようになった、妬みからでしょうか、イエスを殺そうとしていたのでした(ルカ19:47節)。つまり、権威どうのこうのという問題ではなかったように思います。権威ということを用いて、イエスを殺そうとしていただけなように思います。それゆえ、イエスは何の権威で行っているか言わなかったのだと思います。ヨハネのバプテスマの例を出して、律法学者や祭司長たちが答えられないようにされたわけです。プライドがあったら、怒るってでも持論を主張してもよかったが、「分からない」と答えました。

それは、自分の身を守ることを考えた、今の自分の宗教指導者であるという地位を剥奪させられないように、そのために、また、殺されないようにするために、論じ合って答えたようです。自分の保身を考えたからでありましょう。
祭司長や長老は、ユダヤ教の指導者です。しかし、イエスが来る事によって自分の死を招くことにもあるような結果になってしまうことに気付いた。
イエスは、宮清めで、本来あるべき神殿の姿、祈りの場ということを示された、いちじくの木で、人が装う偽装、神に仕える実がないにもかかわらず、あるように見せかける宗教指導者たちを非難してそのあるべき姿が、枯れ木であるということ、つまり、イエスの御用に関わっているように見せかけ、実はイエスの何の役にもたっていないこと、そういう人々の本当の罪人の姿を見せられたのです。そして、徹底的に宗教指導者を非難していくわけです。さて、この非難は牧師とは関係ないでしょうか?これは大有りです。つまり、ここは、牧師の姿をそのまま現しているようなものです。牧師はイエスから徹底的に非難されているのです。
しかし、イエスはどうしてこうまでユダヤ教指導者に忠告非難、怒りをしめされるのでしょうか。おそらく、とても彼らに期待していたのではないでしょうか。素直に読んで、アーメンといえば、それで済んだ事です。また、イエスが律法学者を褒めている箇所もあるんです。マルコ12:28-34。
イエスはむしろパリサイファの方々や律法学者に本当の意味での権威を回復してほしかったのではないでしょうか。罪の赦しの権威、救い主を信じる権威、隣人を自分のように愛する権威、敵を愛する権威、を回復して欲しかったのだと思います。

ですから、牧師がイエスと共に生きていくには、イエスの律法学者や祭司長への非難に、アーメンと言って、従っていくことが必要になってくるのだと思います、ここからは牧師必読の場で、イエスの非難を受けて、アーメンと告白し、偽善にならないように、忠実にこのみ言葉に聞き従うようにするべきだと思います。イエスは律法学者やファリサイ派の人々をすべて嫌っているのではありません。その偽善を嫌っているのです。偉そうにするな、と言っているのです。神から特別に権威を与えられ、祝福されたと思うな、ということを話しているのでしょう。そして、重要な掟を守り、語りもし、実行して示す事が牧師の役割なのだということをイエスは語っているように思います。イエスの非難は宗教指導者への教育と受け止めた方がいいと思います。
あるいは、牧師だけではなく、パリサイ派の人々や群集に向かって話していますから、信仰的に強い人、信仰に関わる人達すべてに語りかけている信仰者の教育的語録と言っていいと思っています。イエスの忠告を素直に受け止めていくことがイエスの愛に対応することだ思われます。
見せかけの信仰ではなく、祈り、救いを信じ、罪の許しを信じ、自分を愛するように隣人を愛していく、そのことを教え、実践するのが牧師の役割、宗教指導者の役割、信徒の役割ということになるのでしょう。

イエスからの叱責、非難があって、わたし達は、この地に信仰者として立たせて頂く事ができる。信仰告白を敢えてすることができるように思います。私たちは偽善者であり、うわべだけを飾る人間であり、枯れ木のような者であるとうことをイエスから示されました。されば、われ、何をなさん。自ずからなす事罪ばかり、何もなす事が出来ない。しかして、イエスはそれでは終わらせない。イエスは共に歩いて下さる。このような私をも神殿としてくださる。すごいお方だ。

イエスの権威とは、人を支配することではなかった、イエスは人を支配はしなかった。貧しい人や病に苦しんでいる人を癒やし、救った。世から捨てられるような人の友となった。イエスの権威は敵を徹底して愛しぬく、罪を赦す、十字架にあった。イエスの権威はそこにある。罪の赦し、これが、イエスの最大の権威だったと思います。
イエスは、律法学者やファリサイ派の人々の偽り、誤り、傲慢を攻める一方で、十字架によってすべての罪を贖われました。この恵みに気づく事が大切なのでしょう。

本来ならば死んでいる私を、イエスは赦して下って、生かしていただいている。この権威ある恵みに気付き、感謝して暮らして生きたいと思っています。