マタイによる福音書21章1節から11節私たちの王、柔和な王
イエスはエルサレムに入場されます。全人類の救い主であるイエスがなぜ、イスラエルと言うか、活動しなかったのか、疑問です。と同時に人として活動するには限られた地域で活動というのも、理解しやすいことであり、実際起こった事実、出来事として理解するには、とても現実的な話でもあります。全人類の救い主の行為。それはどう考えても理解できない行為です。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子たちを使いに出そうとして言われました。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。旧約聖書の予言の成就ということが起こったということをしめしています。なぜ、ユダヤが選ばれたかは,人間的には理解できないことです。しかし、私や日本人との関係がなくなったわけでもありません。
旧約聖書のゼカリア書9章9節には以下のようにあります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って。」
という。
私たちの王は、何をされようとしているのでしょうか。
神の言葉に従い、エルサレムに入場されます。
その姿は、「柔和」。
貫禄などありません。【柔和である】という字は70人訳では「アウル」を約したもので、「痛めつけられ、従って、惨めである」という意味。低いとか敬虔なという意味があるにはちがいあいが、むしろ、「仇をする者に傷つけられる」ことが中心的意味であると、いう。
私たちの王、イエスは「柔和」であった。なぜ、柔和であったのでしょう。
その理由はないのかもしれません。柔和であることが目的であったのでしょう。
十字架への道。
それまでにしないと、人間は救えないのか。
そうであったのであろう。
さて我々は、その恵みをうけて、なにをなそうものか?