マタイによる福音書21章18節~21節 「イエスを信じて祈れ」
本日のタイトルは「信じて祈れ」としました。イエスさまからのメッセージとして受け止めました。
宮清めの続きとして記述されているこの箇所は、宮清めの続きと思っていいと思います。
いちじくの木を呪うという、題がついていますが、これは、ちょっと不適切かなと思います。
この箇所は難解な箇所と言われており、実際読んでもやっぱりどう理解してよいか分かりませんでした。
私なりに解釈すると、信仰的、癒しであり、救いであると思っています。
宮清めのあと、イエスは祭司長や律法学者と論議し、ベタニアに一旦宿泊されます。次の朝、イエスは空腹を覚えられましたが、道端にいちじくの木があったようです。近寄ってみると葉しかありませんでした。そこで、イエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまいました。「弟子たちはなぜ枯れてしまったのですか」と質問しますと、次のように答えます。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木におこったことができるばかりではなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求める物は何でも得られる」イエスは語ります。
さて、ここでも問題はなぜ、いちじくの木をイエスが枯らしてしまったのか、という問題です。マルコによる福音書では、根元から枯れてしまった、とあります。しかし、この時期春先ですから、葉がない、いちじくの木が本来あるべき姿なのでしょう。いちじくの木というのは、春から夏にかけて葉がでて、夏にイチジクのみがなるようです。この時期は春のようですので、葉も実もなっていなくていいのです。葉が茂っていれば、もしや実もと思うかもしれませんね。でも、実はなかったのです。
それにしても、そのイチジクの木に対して、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」とイエスが言われたと聖書に書かれていますが、イエスが求める物がないからといって、「今から後、いつまでも、お前には実がならないように」とイエスはイチジクに向かって語りかけるのはちょっと理解しがたい。気に食わないから滅ぼしてしまう、捨ててしまうというのはあまりにも、短絡的、脅迫的、恐ろしいことですよね。
この「実」というのは、春先のイチジクの木に葉だけが茂っていたイチジクにつく実ということになるでしょう。いかにも実がなっているように見せかける偽りの状態を示す「実」もことをいうのだと思います。
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マタイ7・15-20
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
マタイ12・33-37
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
ルカ6・43-45
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
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偽善や貪欲の実はならないようにということを話すわけです。するとたちまち枯れてしまったというのです。
さて、このいちじくの木は、いちじくの木なのでしょうか。
これは、「お前」とイエスが人に呼びかけるように言っていますから、いちじくの木ではないように受け止められます。おそらく、祭司長や律法学者を意図して、いちじくの木に向かって言っているように思われます。「信じているのならば、何でも得られる」とイエスは語ります。祭司長や律法学者のような宗教指導者は何をしているのか、信じて祈っていないではないか、という警告だと思うのです。祭司長や律法学者は肩書きを得て、みんなから素晴らしいと人に思われたいという名誉欲、優越感、支配欲など、人に見せびらかして、さも、救いを提供するような神に近い存在として、うぬぼれてだけいる者。それが祭司長や律法学者だったのでしょう。
聖書のこの箇所から、イエスは祭司長や律法学者たちを徹底的に批判していきます。そのクライマックスというべきところが、23章1節から36節です。いちじくの木へのイエスのことばはこの祭司長や律法学者宗教指導者へのことばを意味していると思われます。
そして、いちじくの木が枯れてしまいます。
イエスの批判を受けて、見せるだけの葉を茂らせたいちじくの木が枯れたのです。
つまり見せびらかす事が出来なくなったのです。
木は枯れたのですから。見せかけだけの祭司長や律法学者が滅んだということでしょう。
これは、ある意味、素晴らしいことなのではないのでしょうか?見せかけの信仰がなくなるというのですから。
偽善がなくなるというのですから。しかし、人を殺してしまうのがイエスなのでしょうか?実際はそうではありませんでした。祭司長や律法学者は批判されましたが、殺されはしませんでした、殺されたのはイエスの方でした。
さて、それでは、イエスは、この枯れた木を、このまま、枯れたままにしておこうと思っているのでしょうか?
いえ、違います。ルカによる福音書13章6節には次のような「実のならないいちじくの木」のたとえがあります。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を捜しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を捜しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地を塞がせておくのか。』園丁は答えた。『ご主人様今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もし、それでもダメなら切り倒してください』」というように語っています。この園丁はイエス、ある人ご主人様は神です。イエスは3年実のならないいちじくの木に更にこやしをやって実をつけさせようとしているのです。この実は、よい実、信じて祈るという、実なのだと思います。ガラテヤの信徒への手紙5章では聖霊の結ぶ実、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制・・・これらを結ぶ実としてイエスは霊的に導いているのです。
そしてイエスは更に次のように言います。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木におこったことができるばかりではなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求める物は何でも得られる」
さて、ここはどういう意味なのでしょうか?
あなたがたとは、弟子たちのことです。弟子たちに向かって、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったことが出来るばかりではなく、つまり、人にまとわりつく、見栄や強欲や偽善を滅ぼすことが出来るばかりではなく、信じて祈るものは何でも得られる」ということが書かれています。
信仰持つ、神を信じる(マルコ11:22)、これがまず、大切ですね。それは、罪の赦しのイエスキリストですね。これを信じるとはどういうことでしょうか。イエスが枯れ木を滅ぼさないで、よい実をつけるということを信じるならば、ということではないでしょうか。人は罪深いものであって、イエスの御心に叶うことができない、葉だけをつけて、よい実(イエスの御心に従う)のない、本質は枯れているいちじくの木同様の、神には役にたたない者なのではないでしょうか。それが、イエスの働きによって、イエスに役に立つ人に変えられていく。いちじくの木の周りに肥やしをやってよい実を結ばせようとする。そういうことをイエスはやった。それが、十字架につくということだったのでしょう。信仰とはそういうことを信じる、イエスが十字架によって自分の罪を取り去ってくれたと信じることなのだと思います。偽りの信仰の自分を、なんとか神の御旨に添った信仰へと導いてくれる、そう信じることによって、祈りが何でも叶うといっているのではないでしょうか。信仰とは聖霊によってなされる業でもありましょう。枯れ木に宿る聖霊の業とは、人が悔い改めることだけをしているときにのみ、生じる業でありましょう。悔い改めとは、自分が枯れ木の如く、神の前では何も出来ない、死すべき体であると言うことに気付くことでありましょう。ですから、本来死しているわが身の祈りは神の祈り、聖霊の祈りと一致するはずです。肉や自分の思いはなくなってしまうのですから。こうして祈った祈りは、すべて、叶う。神の祈りなのですから。ここではそういうことを話しているのだと思います。枯れ木とは。死している自分であり、信仰的にはただ、悔い改めるのみの自分でありましょう。そして、聖霊によってなされる、その祈りは、神の祈りでしかない。それならばすべて叶うでしょう。よく礼拝の席で、心を空しくして、とかいいますが、それは、そうすることで、結果的には、神の御旨のみが祈られ、実現するようになるのだろうと思います。実現するためにわざと空しくしようとなどと考えて、空しくなるのではありませんよ。それはもう空しくなっていません。自分の祈りが叶うようにという気持ちが見え見えですね。
さて、そのように、悔い改めて、神を信じた時の我々の祈りはどうなるのでしょうか。
それは主の祈りとなっていくのでしょう。
「立ち上がって海に飛び込め」とは、「御心が天になる如く、地にもなせさまえ」ということに含まれれば、とうぜん、なされていくことなのでしょう。
私の祈りは、奇跡を求めてばかりいて、まず、神を信じるということをしていないように思います。だから、イエスに忠告されるのでしょう。
「信じて、祈る」これは言うには簡単ですが、実行するには難しいですよ。
私自身、牧師でありながら、この先どうなるか心配でしょうがありません。年老いた母一人、精神の病気の叔母一人、障害のある自分、隣の叔母の面倒もみなければならない。経済的にそんなに裕福と言うわけでもなく、これから、どんな事があるか、分からない。自分を見ても頼りになるわけでもない、妻いなければ、子どももいない。頼る物は自分だけ、しかし、その自分も、罪人だ、怠惰で、まっとうなことはしていない。いつ仕事だってみんなからはじき出されれば終わりだと言う不安がある.自信もない。最近リハビリは効果がないといわれ、厚生労働省もお金を出さなくなってきている。リハビリにお金を出してくれなくなっている、リハビリ職の自分は、生きていく事ができるのか。不安である、こうして、私はエルサレムの神殿の中と同じように、お金を得ようとしているものでもあるのです。
また、死んでしまうのは何とこわいのだろう、嫌だ、嫌だ、死ぬなんて嫌だ。惨めに死んでいくなんて嫌だ。と永遠の命を与えられると言いながら、さっぱり、しんじていないじぶんがいるのです。葉だけのいちじくの木とは。まさしく、私のことです。
いちじくの木に見せかけた、イエスにとっては役立たないといいますか、イエスの求める、信じて祈ることをしていないもの、それが、祭司長や律法学者であり、私なのだと本日の聖書の箇所からよむとることができるのです。
信仰の薄い者よ。とイエスが呼びかけるところがありますね。マタイによる福音書14章22節から32節のところです。
信仰の薄い者とは、なにも祭司長や律法学者たちばかりではなく、一般の人もそうでした。
しかし、一般の人達は悔い改めたり、イエス様助けてくださいと、イエスに頼ったりできるのですね。
宗教指導者たちの多くにはそれができない。かたくななので、信じて、祈ることが出来ない。いちじくの木は枯れて自分の姿を、本来あるべき姿にしたが、彼ら宗教指導者たちの多くは自分の命を得るようなことを、例えば、指導者という立場、肩書き、人から先生と呼ばれる位置を、人間的に考え、続けようとして、真の神、イエスに気付かないし、もちろん、イエスへの信仰もない。はあ、仰せのとおりです、赦してください。と悔い改めない、ふれ付さない、礼拝をしないのです。中には砕かれている宗教指導者もいますけど、少数みたいです。
信じて祈る。これには、打ち砕かれた魂が必要なのでしょう。
さて、そのことを言い続け、イエスはその結果、十字架につき、死を招きます。祭司長や律法学者たちの勝ちでしょうか。こたえはノー、イエスは復活して、聖霊と成って我々とともにいてくださいます。
現代、祭司長や律法学者となっているのは、牧師や神父、神学者と言われているものです。この、ものたちはユダヤの祭司長や律法学者と同じようなものなのかもしれません。
しかし、私自身が牧師と生きるには、このいちじくの木の呪いやイエスの祭司長や律法学者へ向けられた批判をいつも自覚していないといけないと思うのです。律法学者やパリサイ派の人々偽善者は不幸だ。と語ります。牧師という名においては、同様です。しかし、牧師という名において、この世に生きているのは、おそらく、、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ 5:24)ということがあるからでしょう。
すなわち、イエスを救い主と信じるか、自分は枯れ木となって、イエスの働きに頼る。聖霊の働きに頼る。
そういうようにできるだけではなく、自分は死して、イエスにすべてお任せし、そのとき、祈るならば、「この山に向かって、『立ち上がって、海に飛び込め』といってもその通りになる。信じて祈るならば、求める物は何でも与えられる」とイエスが語ります。
信じるとは、イエスの救いを信じることです。主の祈りの通りになるということを信じることです。『御心の天になる如く,地にもなるということを』信じることです。これ以上の恵みはあるでしょうか。
こういう祈りを信じて祈ることが出来れば、これ以上の恵みはあるでしょうか。
私たちの実とは、主の祈りを、信じて祈ることです。
信じて祈れ、イエスは私たちにこう、なげかけてくれているのではないのでしょうか?
たとえ、強盗のような気持ちを持っている私たちでも、見栄を張る私たちでも、イエスを信じるふりをしている人にも、見せ掛けの偽善的な信仰を持っている人にも、イエスのことば、「信じて、祈れ」という勧めが与えられているのではないでしょうか。イエスキリスト信じる、任せることは、自分が枯れ木のように、自分は本来主からうける裁きにあったものであるという自覚がないとできないことなのかもしれません。しかし、信仰者は、イエスの聖霊によって、不可思議にも、立たされてしまった、貴重な奇跡の結果なのだと思います。1旦は死に、聖霊によって生かされている、キリスト者のみなさん、これこそ、不可能な事、そして、その仕事は信じて主の祈りを祈ること、それもまた、不可能に思えることではありませんか。しかし、それが、実現してしまっている、奇跡を覚えます。その奇跡的出来事が、この地に使わされた使命なのでしょう。
イエスを信じるのは大変難しいです。奇跡だと思います。理屈で信じるものではありません。勉強して信じられるものでもないでしょう。イエスの十字架についていくと言う、苦しみを担わされていると、自覚していく者、なのかもしれませんから、普通では遠慮しますということになってしまうでしょう。「信じて、祈る」これはかれ木のように自分がイエスにとって何も役に立つものではない、という悔い改めに、陥って、初めて体験できることなのかもしれませんから、これも、普通は難しいことでしょうね。
「神は何でもできる」(マタイ19:26)そこにわたしたちが苦しみや悲しみの中にありつつも、希望があるのだと思います。その悲しみや苦しみがいずれ、喜びに変わるときがくる。これを私たちは本当の喜びとして受け止めるのだと思います。ヨハネ16:22-24)「ところで今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、私に何も尋ねない。はっきりっておく、あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは私の名によって何もねがわなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
自分は枯れ木のようなもので、本来は罪に死んでいるものであるが、しかし、イエスは、その罪の身代わりに成ってご自分の命を捧げ、聖霊を、この枯れ木同然の私に注ぎ、ともに生きるようにしてくださっています。そして、そのことを信じて祈るとき、叶わないものはなくなるのです。
信じて、祈れ、これはイエスを信じているすべてのものに与えられている、主からのメッセージなのだと思います。また、それを受け止める事ができ、「信じて祈っている」というこは、聖霊の働きの奇跡がまさに起こっていることなのでしょう。信じて祈る者になりたい者です。
シンプルな信仰の勧め。
律法学者や、パリサイ派、宗教関係者への忠告
本質でない事を本質のように信じる過ち、まやかし、偽り
神殿での捧げ者、両替、格好ばかりつけたいのり、人からよく思われようとする信仰を装った態度への忠告、注意、気付き。
本来の姿へ戻した。
私の本当の姿は「枯れ木」― 強盗の巣 :神の御心にかなわなないもの。死刑判決を受けた罪人。
にもかかわらずに、生かしたのは誰だ? イエスではないか、命を与えたのはイエスではないか?
本来あるべき姿をとらず、信仰という偽善をまとっている、葉だけのいしじくの木だ。
偽善の実をことごとくなくすことができる。悪徳リストの悪をすべてなくすことができる。イエスの業。
信じて祈れ、そうすれば、偽善がすべてなくなる。本来あるべき姿に戻る事が出来、イエスによって生かされるときが来る。
偽装が消え去る希望を、神を信じて祈ることで可能ならしめる。
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いエスはいちじくの実が欲しかったのです。ところがいちじくは実を結ばず、葉だけがあった。イエスにとっては不必要なことだった。イエスにとって必要なこととは祭司長や律法学者が信じて祈ることではなかったのか。それを祭司長や律法学者たちはしていなかった。祭司長や律法学者が仕える、神殿では、強盗の巣となっていた、イエスは、祭司長や律法学者の本質を見抜いて、忠告した。信じて祈れ、と話した。そうすれば何でも得られるという。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:6-9)
「わたしは彼らを集めようとしたがと
主は言われる。
ぶどうの木にぶどうはなく
いちじくの木にいちじくはない。
葉はしおれ、わたしが与えたものは
彼らから失われていた。」(エレミヤ8:13)
「娘なるわが民の破滅のゆえに
わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。
ギレアドに乳香がないというのか
そこには医者がいないのか。
なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。
わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。」(エレミヤ8:20-23)