マタイによる福音書20章1節から16節
天の国の恵み
マタイ福音は、イエスをキリスト(救い主)であり、イスラエルの王の資格を持つダビデの末裔として示しています。このようなイエス理解や文体表現からマタイ福音はパレスティナにすむユダヤ人キリスト教徒を対象に書かれたと考えられています。ですから、マタイによる福音書は、キリスト教徒へのメッセージが示されている書として、キリスト教徒である我々へのメッセージが示されている書として受け取ることができるように思います。本日もキリスト者である我々にどんなメッセージを送ってくださっているのか、聖書を伺いながら考えていきたいと思います。
イエスキリストは私たちすべてを愛し、命を与えて下さいました。
その恵みを私たちは気づけずにいるというお話が今日の聖書の箇所なのだと思います。
天の国の譬え話に、葡萄園での労働者の話が出てきます。
そして、その賃金に1デナリオンと出てきます。
これは当時家族が1日暮らすに必要なお金だったようです。
この1デナリオンあれば、家族全部がその日は暮らせたようです。
ぶどう園は天の国なのでしょう。そこで、労働者はぶどうの生育の世話をされていたのかもしれません。さて、主人はぶどう園で働く労働者を探しに夜明けに出かけて行きました。そこで、ぶどう園で働くものを雇います。1デナリオンということでです。当時のパレスチナの労働は朝の6時から夕方の6時ころまでだったそうです。それに合わせた時間帯だったのです。
その後、9時に出て行くと、何もしないで広場に立っている方々がいらました。そこで、「あなた方もぶどう園に行きなさい。相応しい賃金を払ってやろう」と言いました。そこにいた労働者はぶどう園に行きました。12時と3時にも同じように出て行きました。そして、午後5時に行ってみると、他の人々がまだ立っていました。
前の話では、世の先頭に立っているような方々の多くは、神の恵みに気づくことに遅れると言うことをお話しました。
今回も似たような話が出てくるのですが、主人としての神は我々の働きの能力や結果に関係なく恵みを等しく与えられる方であるということを話しています。
天の国の恵みは、私たちに不平を生み出すことがあるようです。それはどんな人でも、イエスの十字架が救ってしまうからです。どんな人でもイエスは愛されてしまうからです。キリスト者になって苦労をおってきた労苦に対する恵みと、やりたい放題自分勝手に暮らした人でも、最期の最期に神を信じますとイエスの十字架の救いを受け入れさえすれば、そのとき、天の国という報酬は同じように与えられてしまうということが今日の聖書の箇所です。そして、はじめからクリスチャンになって、礼拝を守り、教会形成に力を注ぎ、清められ、正義感を持って生きていても、人とのいさかいに苦しみ、乗り越え、多大の犠牲の悲しみをおってきた感じたとしても、貧しい方々に施しの事業をしても、その天の国の報酬は同じなのです。最期の人が1デナリオンなら、初めから働いた人はその何倍も報酬を得たいと思うのはこの世では常識的なことだとおもいます。
しかし、天の恵みは、ここでは1デナリオンと譬えられていますが、それは、永遠の命 その人に相応しい恵みなのでしょう。私たちは、その恵みに気づくのができない。恵み以外のものを求める、的外れな欲求が私にはあるのかもしれない。もっと恵みをは、余計なものを求めているのではないでしょうか。私は、天の国以上のものを手に入れたとして、何ができるとうのだろう。本当に人が求めているのは、イエスの救い以外ないのではないのでしょうか?
ローマの信徒への手紙の中に、すべてのものが救いを求めて、苦しんで呻いて求めているという箇所がありまして、それは、イエスの救いであるという事が示されています。。
◆ 将来の栄光
8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
このように人はすべて、キリスト者であろうとなかろうと、苦しみの中に生きています。キリスト者になっても苦しみがありますが、キリスト者にならないでいた場合の苦しみも、大変大きく、想像に絶することなのかもしれません。わたしは,自分の最大の敵は「死」であり、「滅び」であり、この世にはそのような出来事が生じ、将来我々は滅びてしまうのではないか、と言う不安に襲れているのは事実です。しかし、イエスの十字架によって、「死」や「滅び」が無くなった、という信仰が私にはあります。「信仰と希望と愛」この3つはいつまでも、(この世にも)残る、とローマ信徒の手紙Ⅰ13章に示されています。ですから、この世を信仰と共に生きるとき、イエスと共に生きるとき、平安が得られているのです。これが葡萄園で働くと言う事だと思うのです。何という恵み。信仰がなければ「死」や「滅び」への不安はいかほどか?葡萄園の外で仕事を待っている人たちは、「死」と「滅び」の恐怖、不安にさいなまれながら過ごしていた人たちなのではないでしょうか?そのような方々がこの人生の旅路の最後にでも、イエスの恵みに気付き、救われていく事は、私にとっても、本当は大きな喜びなのではないのでしょうか。
旧約聖書のヨナ書に、預言者ヨナが、北イスラエルの敵国のアッシリアのニネベに宣教しなさいと主から言われ、宣教に行った話がありました。そのとき、ヨナは敵国故にニネベに行くのがいやで逃げ出しますが、地中海を渡って、タルシシュまで行こうとしましたが、海難にあい、3日3晩大きな魚の中に入れられて、結局、ニネベのあるほうの陸地に吐き出されてしまいました。そして、「40日たつと、ニネベは滅ばされる」という、主から受けたメッセージを伝えたのでした。すると、ニネベのすべての民が悔い改めため、主は滅ぼされなかったのです。それを知ったヨナは、非常に不愉快に思い、主に怒っていいます。「ああ、主よ、私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初め、タルシシュに逃れようとしたのです。私には、あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思いなおされる方です。どうぞ命をとって下さい」と話します。ヨナにとっては、残虐非道の民と思われる敵国アッシリアのニネベの人々には、救いや永遠の命の神の恵みを受けてもらいたくなかったのでしょう。神はなんてあんなやつらを救うんだ、と思った事でしょう。
天の恵みを頂いてこの世で生きている私たちは、とかく、自分が神様から祝福をたくさん、他の人よりも得たいと思ったり、余計な恵みを求めたり、宗派の違う、他の人が祝福を受ける事に不平をもったりするものです。また、通常の生活原理は、成果主義とでもいいましょうか、一杯実績を上げた人が多く報酬を得るということが正当な事柄とされております。働かざる者食うべからず、これが、当たり前の定めとなっています。
しかし、天の国の恵みは成果主義を取らない、働かざる者食うべからず、という原理原則は取らない、ということを示しています。成果には無関係に報酬を平等に与える、と言っているのです。働かざる者食うべからずとは言わないのです。働くものも働かざる者も同様に食うべし、と言っているのです。天の国の恵みはすべての人に平等に与えられます。太陽や降る雨のごとくに、善人といわれる人にも悪人と言われる人にも与えられています(マタイ5:45)
私たちの心には、神様の気前よさに対する妬みがあります。本日の聖書は私にそうのような妬みを捨てて、悔い改めて、天国の恵みに感謝することだけに専念しないさい、そして生きている間には、その恵みをすべての人と分かち合いなさいと言われているように思えます。
祈ります。