マタイによる福音書19章1節から15節 天の国のため 赦し

イエスの教えは「敵をも愛する神の愛」、どのようなものでも神の祝福を受けていけるということです。
その教えは新しい教えであって、ユダヤ教の教えとは真っ向から対立してしまいます。
「目には目を、歯には歯を」に対しては、「敵をも愛しない。迫害する者のために祝福を祈りなさい」
と語ります。そして、人間のモデルとして「乳飲み子」を出し、弱く、低く、すべての人を信頼し、自分の神のように尊重するようになれとか、こういう人を受け入れるようになれとか、とまで語っていきます。
当時のユダヤ教の指導者たちの教え、律法を守ることによって神の祝福を受けていくという考え方、に対してとても受け入れられるようなものではありませんでした。イエスの言葉を信じることは奇跡的な出来事です。

ユダヤ教の指導者の一派であるファリサイ派の人々はイエスを律法について正しく理解しているかどうか試そうとして質問します。申命記24章1節から4節においての、離婚についてでした。当時、ユダヤ教では、男子は結婚することが義務とさせられていました。また、離婚も妻に不倫があった場合に当然離婚できました。また、夫が赦しても法廷で離婚させられました。
そして10年子どもを生まない場合は、他の妻を娶ることを義務とさせられていました。当時の結婚は男性中心、子孫を継承するための手段とされていたようです。離婚もそのような考え方で行われていたようです。また、そうすることが神の御心と思われていたのでしょう。
あそらくこの時代、独身のものは社会的弱者と扱われていたことでしょうし、結婚した夫婦も何か、変だなあと思いながら、悲しみを覚えながら、暮らしていた者もあったでしょう。
当時は結婚も離婚も独身もちょっと本来の神の御心にかなったのもではなかったということでしょう。

当時ユダヤ社会は離婚容認社会でした。しかし、イエスは敵をも愛せなどととんでもないことを話している。律法違反だ。違反現場を作って、訴えて処罰してやろう、と考えたことだと思います。つまり、イエスは離婚しないで、敵を愛する愛で愛せ,というのだろうと思ったのです。

本日の聖書は病人の癒しから始まっています。また、その前については神の赦しについて触れられています。
ここでは万人が神の恵みを与えられるということが記されているのではないのでしょうか。
イエスは結婚、離婚、独身について、新たな視点から述べていきます。それは赦しです。イエスは離婚について言及するときに、「結婚」の話から始めます。結婚は神様の業であることを伝えます。「神が結び合わせて下さったものを人は話してはならない」と結婚の本来の祝福の意義を説きます。おそらく、当時は前にも話しましたように、結婚を神のこの業として、受け入れていなかった場合もあったのかもしれません。そして、離婚はそもそも神の業である結婚がなされなかったから生じたと語ったようです。また、離縁については、モーセの真意を示して、妻が不貞の場合容認しているが、できれば、結婚したままの方が好ましいことを述べています。ここで律法学者たちの試みについて回答したわけですが、さらに、離婚した者だけに留まらず、独身者の方々にまで及んで、「天の国のために結婚しない者もいる」と言われ、それらは理由を問わず、「恵まれた者」、と語っています。ここでは結婚も離婚も独身も神の祝福や恵みに漏れないということを話していると思われます。

結婚、離婚、独身、現代でも人間社会ではそれによって区別され、シングルマザーのように社会的弱者とされてしまったり、結婚に縛られてしまってしまうことさえある現実もあります。また、同性愛者の存在が知られており、そういう方々の結婚はどうあるべきか、とか、社会や特に教会の牧師となることや、祭司になることの是非が問われ、答えが出ていない状態です。しかし、今日の聖書の箇所からは、そのような人も含め、結婚してもしてなくても、それぞれ神様から祝福されることにおいて何ら漏れない人だと言っているのだと思います。
そして、この話の最中に、子どもがイエスのもとに連れられてきました。弟子たちがそれを叱って止めようとしたのですが、イエスは反対に、子供を祝福しています。「天の国は子どものような者のものである」と子どもが天国行きだと宣言されます。結婚するとか離婚するとかには程遠い子ども。この子ども乳飲み子とも取れるのですが、そういう弱いものでありながら、人を信頼して生きていく、こういう生き方が大切であって、そういう生き方をしつつ、結婚をするのも結構、離婚するのも致し方なし、独身でいることでも恵まれる、同性愛の場合は結婚についてどうあるべきかの結論はでずのままであるが、それでも恵まれるということを示されているのだと思います。すべてのものが、イエスの祝福に預かることができるということを示したいのだと思います。
さらに考えさせられることは、夫婦なり、離婚した者でも独身でも、人々が平和に暮らすには、「赦し」という和解が必要になってくるのだと思います。旧約聖書創世記にアダムとイブの話が出てきます。アダムとイブは夫婦でしたが、蛇の誘惑にあいます。そして、神様から食べてはいけないといわれていた中央の命の木の実をイブはアダムに勧め食べさせてしまいました。神様からそのことを問われたとき、アダムはイヴが勧めたので食べた、と責任転嫁をしました。イヴは蛇が大丈夫だといったからと罪の責任転嫁をしていきます。相手の罪を赦さない態度をとっていくのです。人間社会のことを思うとき、こういう罪の転嫁では、平和ではなくなり、疑いや争いが生じてしまうように思います。
大切なことはこの地で、罪の赦し、敵の罪を赦す、神の愛を実現して行こうとする信仰であると思われます。
現代社会はそういう根底にかけた結婚が多く、故に離婚が多く、また、結婚の煩わしさから逃れるために、独身者も多い、故に、神の業をなそうとしていない時代なのかもしれません。罪の中にある結婚、離婚、独身なのでしょう。

しかし、聖書はそれらの関係について救いを伝えています。
イエスは「神が結び付けられた者を人は離してはならない」と宣言しています。これは、我慢して結びついていろ、といっているのではないと思います。赦し合いなさい、という、罪を犯した時の、罪を犯されたときの、解決策、赦し、を行うことだと、教えてくれているのだと思います。「神が結びつけた」とは「赦し合う関係」を与えられた者同士ということでしょう。赦し合う関係でいる者、ということでしょう。
その赦しは、今、言葉を語っているイエスが私たちになしてくれたことです。
それ故に、イエスは十字架にかかり、すべての結婚でも、祝福を受けて歩むことができるようになった。
離婚においても、独身においても、同性愛者においても、罪を清めて、祝福し、神の愛を実践するために、イエスは導いているのかもしれません。赦し、これが導く先は何か、それは我々の悔い改めであると思います。
弟子たちは、子どもを受け入れようとしませんでしたが、イエスは受け入れます。このような我々が勝手に決め付けている思い、イエスの祝福や恵みはある条件の人しか得られないという思いから、どんな人でも祝福や恵みをイエスから受けることができるという思いへの悔い改めなのではないのでしょうか。

私たち、結婚、離婚、独身でいることについて、
乳飲み子から、また、イエスから、学んでいくことができるのではないでしょうか。
天の国は、赦しの世界です。結婚しても、離婚しても、独身でいても、幼子のようにただ赦しの神の国を受け入れていくとき、私たちは悔い改めに導かれていくということだと思います。
天の国のために、我々は、まず、赦しが与えられ、そして、悔い改める者とされる、という祝福に預かることができるということが今日のお話の結論です。結婚することで祝福に預かり、離婚することで祝福に預からないということではありません。結婚する者も、離婚するものも、再婚するものも、同性愛も、独身もすべて、イエスの祝福や恵みに預かることができるということ。幼子のように祝福を受け入れれば天の国が与えられるということ、そして、その祝福や恵みとは我々大人にとっては悔い改めに導かれていくということです。
ファリサイ派の人々は、イエスのこの言葉の後に反論はしないようでした。
おそらく、その言葉に聞き入ってしまったのでしょう。
もしかしたら、自分たちがイエスを試そうとしたことを、悔い改めたのかもしれません。
イエスのことばを、このときばかりは、受け入れたのかもしれません。
天の国の私たちに与えらた恵みにより、悔い改めの暮らしを送りたいと思います。
感謝していきたいと思います。