マタイ18章6節から9節 これだけは絶対お勧め
聖書では私たちへの救いの恵みがかかれています。罪人である我々はイエス・キリストの十字架によって救われた、という出来事が記されています。それを信じる信仰者はキリスト者とかクリスチャンと呼ばれています。
本日の聖書の箇所はその信仰者に向けられて語られている言葉として聞いていくとよいと思います。イエスの弟子たちに語られたものですけれども、洗礼をうけていなくても、イエスに興味をもっていたり、信じてみようなと思ったり、なんらかの形でイエスに関わっている人すべての人がよく考えてみてよい話だと思います。
さて、イエスは我々を救ったということを前提として,我々にこの地上で生きている間にして欲しいことを語られています。それは、神の愛の実践であるということです。神の愛は「敵をも愛する愛」です。自分を憎む者に対しても、迫害するものに対しても、神の祝福を祈る愛です。その愛は、莫大な財産や、力、知識、技術をもってそれを与えることとは違います。前の箇所に,「自分を低くして子どものようになる人が天の国で一番偉いのだ」とイエスが語っていますように、イエスは「こども、ここでは乳飲み子のような子どもを含まれているようですから、弱くあって、ひくくなっていて、自分と関わる人を、自分の神のように信頼して、尊重して、仕えて、したがっていくことを、神の愛の実践ととらえることができるように思います。
そのことをイエスは勧めています。
そして、その勧め方は尋常ではありません。
「しかし、わたしを信じるこれら小さな者一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められた方がましである。」と手厳しいことを話されます。神の愛の実践をする者、敵をも愛したり、周囲のものを信頼し、尊重し、仕えているものを、そういう行き方をやめなさい、敵を憎むんでもいいのだ、というように躓かせることは、いけない。そういう人は死んだほうがいいということを話されているのです。しかし、躓きは避けられないとも言っており、そういう世は不幸だと話してます。
そのあとも、神の愛を実践することをしないのなら、躊躇を感じるようであれば、手でも足でも切ってしまった方が良いとか、目でもえぐりとってしまった方がましだとか、かなり、厳しい言葉が続きます。
神の愛の実践はそれだけ、イエスが重要だと、これだけは我々になんとかして、やってもらいたいことだと思っているようです。なぜ、イエスはそれまでして、適をも愛する神の愛の実践を勧めるのでしょうか?
それは、本日の聖書の最後の箇所に書いてありますように、「一つの目になっても命に預かる方が良い」と語っていますように、神の愛の実践はわれわれの命に預かる秘訣といいましょうか、神の愛がなければ、我々は生きていけないからだ、というようにイエスの答えを、詠む取ることができます。「人はパンのみでいきるのでは、ない。神から出る一つ一つの言葉で生きる」は神の愛の実践によって生きることができるのだということを示してくれているのだと思います。
私たちは科学的に、どうして生きているか、なぜいきていることができるのか、という答えを出すことはいまだできていません。しかし、イエスは神の愛の実践、実現によっていきるのだということを明確に示しています。パウロのこの『愛』については、永遠に残り、最も、偉大で、最高の道であるということを話されています。コリント信徒への手紙Ⅰ12章31から13章にそのことが書かれています。われわれの最高の道は、神の愛の実践、実現なのです。
敵をも愛する愛、それは自分と関わるすべての人に対して、自分の命を救い、導き、守ってくれる神のように信頼し、尊重し、仕え、したがって行くこと、これが、イエスの申す神の愛のこの世での実践です。われわれはそれをしていくことができるでしょうか。とても難しいと思います。
戦争やテロが絶えない世界、訴訟や争いごとが絶えない周囲、財産やお金、名誉や、技術や知識、あるいは制度に頼ってしまう心理、とても、神の愛、敵を愛する愛ということで、本当に生きていけるのか、生きた心地がするのか、疑問は湧くばかりです。
しかし、聖書には我々に、神の愛の実践を迫っています。
イエスはそれを実践しました。我々をおそらく、神のように信頼し、尊重し、仕え、従いました。十字架まで従いました。間違ったことに従いました。これは、我々を信頼していたからに違いありません。神の愛を実践してくれる人だと我々を信頼していたからに他ありません。
イエスはなんとしても我々に神の愛をこの地で実践してもらいたいという願い、勧めをさえているのです。神の愛の実践だけは絶対お勧めだ、ということを我々に語っているように思います。ご自分が十字架にかかることで、我々に神の愛を実践してもらえるなら、十字架にも架かろうという、神の意志。御心。我々への御心は神の愛の実践にあったということを聖書から気づかされるのです。
敵をも愛することを実践しようとすると、躓きはさけられない、とも、イエスはご存知でした。
人間には無理なこともご存知でした。「躓きは避けられない」と書かれています。神の愛の実践は、人間には無理だ、しかし、そこで、イエスは諦めなかった。人間にできないなら、天国へすべての人をすぐ、もっていくか、ということになりますが、この地でも、天の国を体験できる恵みを提供することを諦めなかったと思います。それが、イエスのこの地への復活とイエスの霊、聖霊の降臨です。つまり、イエスは人と神の共同作業でこの地に神の愛の実現を成されようとしているのだと思います。パウロがいうように、われわれの体は聖霊の住みかです。神の宿る神殿です。我々に聖霊が宿っていれば、神の愛の実現は、敵のために祈る愛の実践は可能となりましょう。神自身が私と私たちと一緒にいらっしゃるのですから。
パウロも「愛を求めなさい」と語っているとおり、人間の努力目標として上げましょう、ということを話しています。
イエスは神の愛の実践、これだけは絶対お勧め、と語っているように思います。人間業ではできませんが、我々と共に働いて下さる聖霊となら、神の愛の実践は可能だと思います。5月27日は聖霊降臨日でしたが、何を信じていったらよいのか分からなくて、不安に思い、閉じこもっていた弟子たちに聖霊が注がれた日です。それによって、弟子たちはイエスを信じきることができるようになり、イエスは救い主であることを他者に堂々と伝えることができるようになりました。そして、神の愛の唯一のわれわれへの使命も理解していったと思われます。今も聖霊は我々に注がれています。
イエスのこれだけは絶対お勧めという神の愛、敵をも愛する愛を求めておられます。今、みなさんお一人お一人、隣にいらっしゃる方を、信頼していますでしょうか、自分の命の救い主が今日ここに集まった方々だと思えますでしょうか、神のように信頼して頼っていい方々だと思えますでしょうか?、主イエスキリストを救い主と信じるならば、十字架の罪の赦し、復活と聖霊が与えられていると信じるならば、隣人は神同様に信頼していっていいのです。神を住まわせている方方なのですから。
キリスト者だけが、信頼に値すうのではないでしょう。本当はすべての人間は信頼に値いする人なのでしょう。
そういうように心に思うとき、この地は天国と化すように思います。
イエスがこれだけは絶対お勧めと言っているようの思われる「敵をも愛する神の愛」で愛し合えるよう祈り、少しでも実践できるようになりたいものです。