マタイ17:23-24 イエスの十字架と復活

イエスは弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、3日目に復活する」と語られます。マタイ16章21節と20章17節、と、3回この予告はなされます。
なぜ、イエスは3回も前もって話したのでしょうか?
弟子たちはこの話を快く受け取ってはいません。
救い主が死んではならない、救い主は負けてはならない、と思っていたのだと思います。
イエスは我々に愛し合うようにという命令を出します。

われわれが愛し合う関係を築くのが、この世の中での唯一の義務です。
人は愛し合うことができないから、そういうように命じているのだと思います。
人が愛し合うとはどういうことなのかと思うと、聖書からみると、コリント信徒への手紙Ⅰ-13章ですが、
愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
ということばがあります。実に愛と言うのは、上のごときことでして、好き嫌いをはるかに超えた神の業、聖霊の業、イエスの業であったのです。
神はアガペーの愛で人を愛せと我々に語っているのだと思います。
神の愛は、神にしかありません。人が神の愛を発揮することができるのでしょうか?
大抵はここで、それは無理だね。と語るのだと思うのです。
せいぜい語られて、親子の愛、恋人の愛、夫婦の愛、友人の愛程度に留まり、まあ、人間だから、それでいいのよ、程度にすまされているかもしれません。

イエスはそういうことを言いたかったのでしょうか?
神の愛については、人間とは無関係に存在するものなのでしょうか。
人間には神の愛を発揮するチャンスはないのでしょうか?

違うと思います。
敵を愛しなさい、自分を迫害する者のために祝福を祈りなさい。右頬を打たれたら、左の頬も向けなさい。イエスは誰に向かって、言われているのでしょうか。それは、我々普通の庶民、どちらかといえば、身分のそう高くはない人々に向かって語っているのではないのでしょうか。
イエスは私たちが、神の愛をもって愛するような人々になって頂きたいと思っているのではないのでしょうか。

律法学者やファリサイ人へと議論できたのも、律法に勝り、かつ、律法をすべて完成させた、神の愛の行使、を確信していたイエスだったからではないでしょうか。
そして、イエスはイエスだけではなく、同行する弟子たちと共に、安息日に麦の穂を摘む律法を破ったり(マタイ12章1―8)、案息日に手の萎えた人を癒したり(マタイ12:9-14)しました。これはどういう意味かと考えますと、神の愛を行える人は、イエスだけではなく、イエスの弟子についても同様だということを実例を用いて示したのではないでしょうか。また、弟子だけではなく、イエスを信じる人すべてに、神の愛の行使は可能だということをしめしているのではないのでしょうか。
人は罪人である。それは、そうかもしれません。しかし、罪人のままではありません。その罪人である我々が、神の愛の実行者、実現者であるということにもなるということをイエスは語っているのではないのでしょうか。

現代は神の愛については、人間とは無関係にされていることが多いと思います。キリスト者たちは救われたということを、律法や十戒を守らなくてもいい、ということだけに、目をやって、イエスが私たちに命じ、行うことを期待している、神の愛、敵をも愛する神の愛を実行しようと思っている人はどれだけいるでしょうか。神の愛などむしろ煙たいうっとうしい物だと思っていないでしょうか?ここにキリスト者の堕落を見出します。律法学者やファリサイ派の人々の方がまだましなような気がします。
本日の聖書の箇所にはイエスの十字架と復活がしめされています。イエスがそれまでにして、我々にしてほしかったことはなんだったのでしょうか?それは、神の愛の実行に他ならないと思います。
復活したイエスは我々と共にいるとあります。なぜ、我々と共に神がいらっしゃるのでしょうか?
それは何としても神の愛で愛し合う関係の人類を作りたいとおもっているからではないでしょうか。

日常の生活の中にイエスは共におられます。次の節には神殿税納めるかというような話し合いになりますし、前の節では、てんかんを治したりしています。ごく、日常のありふれた中に、病気や貧困や社会的弱者の中にイエスは共におられたようです。日常の中に神の愛の発揮の場所が示されているようい思います。つまり、暮らしすべての中にイエスの神の愛は発揮されるのだということだと思います。そして、イエスは本来人ではできない、神の愛を、人と神の共同作業で成し遂げようとしているのだと思います。神と隣人人とを愛せ(マタイ22:34)、とは、神の愛の実行を、神と人との共同作業で行っていこうという神の意志があるのではないのでしょうか。神がいる限り、神の愛が私たちを通して発揮されると私は思っています。親子、恋人、友人、夫婦、師弟の間に神の愛が働きますように、いや、実際神の愛が発揮されているのかもしれません。
神の愛、われわれは、神の愛によって生きている、神の愛の実現が私たちの道であり、神の愛こそが真理でありましょう。私は、道であり、真理であり、命であると語ったイエスのことば(ヨハネ14章)も納得できますね。神の愛がなければ、生きてはいけないし、神の愛はわれわれの目標であり、神の愛が真理(確実にあること、人間関係として実在し、相応しい人間関係成立するための真理)なのだということを改めて思わされます。
人において、神の愛は実行できるか、の問いに対して、たわしは イエスと答えます。
十字架にかかり、復活されわれわれと共におられるイエス、それは我々に神の愛、敵をも愛する神の愛を実現ざせるためであるということを覚えます。お互い神の愛で愛することができますように祈ってまいりましょう。