マタイによる福音書16章1節から4節 時代のしるし
本日の聖書の箇所は、イエスがパリサイ派とサドカイ派の人々、当時のユダヤ教の分派の人々から、試されて、天からのしるしをみせて欲しいと、質問された箇所です。12章の38節にも同じような質問が、律法学者やパイサイ派の人々から質問をうけています。イエスキリストが本当に救い主なのか、その証拠をしめせ、という質問がイエスに投げかけられています。こういう質問はきっと何度もいたるところでなされていたでしょう。私たちも、新興宗教の教祖が自分が神だといったなら、同じように、その証拠を見せて、というでしょう。特に私は、イエス・キリストが人類の救い主であると言う立場に立つ、牧師です。他の宗教の神を否定したくなってしまうのです。
イエスはここで、他の宗教の神を否定する思いに対して、警告しているのではないのでしょうか。ご自分はあえて ユダヤ教の神であるのに、その姿を捨てて、ユダヤ教以外の神にもなり、ユダヤ教徒の誤った信仰の仕方に、警告し、注意を促しているように思います。自分の信仰を、自分の理性や経験や習慣によって絶対化させようとすることに注意を払っているように思います。
しるしを示せは、人間に見て分かるような証拠を示せ、ということです。イエスはそれに対して、「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから晴れだ』といい、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』という。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見分けることができないのか。」と言われます。天気を見分けて、予報することはできるのに、この時代の、しるし、ということを見分けることができないのか。と問われます。「この時代のしるし」というのは、「このとき」という意味で、神が受肉して、天から、人の世に来た、このとき、救いのときを意味するようです。つまり、「この時代」というのは、神が介入している時代」と理解できます。
イエスは更に続けます。「ヨナのしるし」の他にしるしは与えられない、と加えます。
「ヨナのしるし」とは、イスラエルと敵対する異邦の国の人々へ、ヨナが、神の裁きを伝えたところ、すべての民が悔い改めて、滅びの予定にあった、街が救われた、という話です。しかも、ヨナ自身は、ニネベの国の人を憎んでいたし、滅びを願っていたし、そこにはいきたくなかったのです。ヨナのしるし、とは、滅びの運命を、救いの運命に変える神のしるしが示されているので、それが、神のしるしだということをイエスは語られているのでしょう。「滅び運命のものを救いに変える」これが、地上にける神の仕事,御業です。
イエス・キリストの十字架と復活が滅びる我々の命を永遠の命に代えてくださる出来事となりました。
は、救いのことを理解できず、自分の行いによって救われるという神疑念を捨て去ることはできなかった。とても科学的で理性的で経験的だったのだと思います。目に見える形でしか理解しようとはしなかったのでしょう。
最近、宇宙の研究が進み、宇宙の大きさは観測できる物で説明すると、2から3%しか説明できないということがわかっているそうです。あとの95%から98%はどう説明し言いか謎だというのです。
ですから、私たちの暮らしている場も、実在するものの、多く見積もっても、2から5%程度のことしか分かっていないとも考えられます。その2から3%のことで、神のことを証明しても、わからないことが多く出てくるのではないでしょうか。実際、イエスは多くのしるし、病を癒したり、苦しんでいる人を救ったり、嵐を沈めたり、湖の上を歩いたり、死者さえも復活させたり、多くのしるしを見せられました。それでも、人間は彼を神と認めたでしょうか?
弟子さえも、十字架につくイエスの前には、信じられなくなってしまいました。
現代は、神にそむいている時代です。本当の神イエスを知ろうとせず、人間の理解できる神を絶対化しようとしている時代ではないでしょうか。
日本社会では、「金」「富」を合理的に人にとっても大切なことと勘違いしているように思います。一番大切な、「愛」はなおざりにしています。
自分に都合悪いことはしないようになっていると思います。
現代人のしるしは「神にそむいていること」です。
神はすべての人類を滅びから救いにかえるという業をなす方であり、これが、ヨナのしるしとして示されました。どんな宗教も関係なくしてです。カトリックという意味は、普遍的という意味です。どんな信仰や、宗教にも関係なく、わけ隔てなく、あるということを意味しています。イエスは宗教をなくした、とさえいう牧師もいます。
時代のしるしとして、示された、イエスの十字架と復活、我々の滅びからの救い、これが、時代のしるしだと思います。
また、現代は、神に背く時代であり、人間の目にみえなかったり、論理的でなかったりすることは信じないようになってしまった時代です。また、それ以前に、自分の思い込みや力で人を支配してしまうような邪悪な時代でもあるようです。不正がはびこり、人の揚げ足を取り、冨に仕え、人的力、人間の知的能力、科学。技術、そして武力にさえ、、頼っている時代であるように思います。
この時代に生きる信仰者は、イエスを信じる信仰者は、聖書から、あるいは啓示から、今の時代に必要なことを理解できるとおもいます。それは、イエスの命じられている「愛し合いなさい」、他者を愛していく、他者を大切にいとおしく思っていく、人種や宗教、文化の違いを超えた、キリストの愛、それに基いた、「倫理」なのではないかと思います。