マタイによる福音書16章13-20節 
天の国の鍵

聖書を読んでいますと、イエスが猟師たちや身分のそう高くない方々と、雑談されていたように思う記事が多くあります。講演会とか演説会ではないのです。気軽な雑談をしていたようです。雑談、日常の会話にイエスの場合、とても重要な話がなされていたようです。
本日の箇所も、とても、重要な話があるのですが、それは、雑談の中での出来事です。

フィリポ・カイザリア地方、ガリラヤ湖の北東に40キロくらい行ったところで、当時のローマ帝国の街です。カイザリアという意味はローマの皇帝カイサルにちなんで付けた名前です。フィリポはヘロデ王の息子でこの町を支配下に拡張したので、フィリポ・カイザリアと付けたようです。街には、皇帝を崇拝して礼拝する神殿、ギリシャの神々、バールの神の神殿などがあったようです。ユダヤ教においては全くの異邦の地、全く宗教の異なる地域でした。おそらく、ファリサイ人やサドカイ派の方々から追われて、逃げて行ったのではないかと思われます。イエスはファリサイ派の人々やサドカイ派の人々から、天からの印を見せろ、といわれて、実際はみせず、ヨナのことを話して終わったからです。彼らのいう通りにはできなかったから、彼らからはますます疑われ、誤解されていったのは当然のことです。

イエスは、弟子たちに、雑談をされていますが、ここで、「周りの人は自分のことを、何ていっていっているんだ?」と問われます。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』という人も、『エリア』だという人もいます」「他に『エレミアだ』とか、『預言者の一人だ』という人もいます」と言いました。雑談なのでもっと砕けていたと思いますね。
これは、弟子たちがかなりイエスに気を使って語られたことばだと思いますね。
弟子たちはこのときはイエスをすごく慕っていたように思います。決して、ファリサイ派やサドカイ派のことは言わない。ユダヤ教にとってとても素晴らしい宗教指導者として認めているわけです。
で、次に、イエスは、「じゃあ、あんたたちは、私のことは、何だと思っているの?」と質問されます。
すると、ペトロが答えます。
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。
この答えは人並み外れてイエスを愛することばだと思います。
なぜかといえば、ここにいるのは、弱気なイエス、弱弱しいイエスだと思うのです。
とても優しく、病気の人を癒したり、困っている人を助けたり、パンの奇跡を起こしたり、嵐を沈めたりしましたが、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人それぞれの信仰心を奇跡で変えようとしてはいないのです。いうことは言いますが、彼らの好きなようにさせておいているのです。しかも、今は、そのユダヤ教の人たちから追われて逃げてきているような有様です。
しかし、ペトロはここでは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。
イエスのこれまでの行動、こどばを受け入れ、自分から信仰告白をされました。
そして、それを聴いたイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる。黄泉の力もこれには対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天井でも解かれる」とペトロに権威を与えられました。
これもまた驚くことです。
イエスはペトロを神以上のものにするといわれたように思います。
果たしてペトロはどうしたか?
教会は建てずに、イエスを裏切る結果となりました。
それ故に、イエスは十字架によって葬り去られてしまいました。
天上の鍵を預かったペテロがもし、イエスのことばに反し、裏切らなかったら、
この世はまた変わったものになっていたかもしれません。
イエスが教会を作っていきつづけていたのかもしれません。

しかし、ペトロはイエスについて3回知らないと白を切り、十字架刑につくような状態にさせていまいました。ペトロはその後、悔い改めて、イエスの復活後、イエスに出会い、「愛するか」とイエスに問われるわけです。3回問われるのですが、このとき、イエスはペトロを愛していているんだ、天の国の鍵を与えるくらい信頼しているだ、と言ったようにも思います。ペテロはそのようなイエスの愛を聖霊を受け、教会を作っていったのでしょう。この聖書の箇所からペトロを教祖とする教会がカトリック教会となって、現在まで続いています。

天上の鍵とは、天の国を人の力で動かすことのできる鍵です。これを普通の貧しい漁師であるペトロに渡したイエス。そして裏切られても、復活し、愛し、教会を建てるチャンスを与えるイエス。その、恐れ多い、祝福を用意されているイエスが私たちと共にいるのです。天の国を用意し、しかも、今も共にいて下さり、おそらく、ペトロのような人には、天国の鍵さえを渡すようなイエス・キリスト、この方、と共にいるくらい幸せなことはないと思います。

天の国の鍵はペトロだけによういされたものでしょうか?
それは違うと思います。私たち一人一人に与えられている物だと思います。
それを用いて、この世で何をすることができるのでしょうか?
私たちに自由が与えられているということでしょう。イエスを裏切るもよし、従うもよし、という自由です。
さて、わたし達はどちらを選びますか。
わたしはどうしてもイエスに従う道を選ばざるを得ないと思っています。
なぜなら、イエスは、雑談するような場所でも、いつも私と共にいるということに気づかされているからです。
しかも、天国を動かす、鍵さえも授けると語ったイエスが共にいると信じているものですから、このような、素晴らしい方なら、感謝して、喜んでしたがって生きたいと思います。
そして、主によって集められた教会、私たちに天の鍵さえも与えてくれているイエスに感謝を捧げる、祈りの家を建てることができますなら、幸いと思っています。