マタイによる福音書14章34節から36節 苦しみからの救いは必ず叶う
本日の聖書の箇所は、病気の人が癒されたことが書かれています。
ゲネサレトというところに着きました。その土地の人々は、イエスだとうことを知って、イエスだ、イエスだとみんなにくまなく触れ回りました。きっと、病気の人を治して下さる救い主だということを知ったからでしょう。湖の上をあるいたり、嵐を沈められたりしたのを弟子から聞かせられたかもしれません。ここの方々はすぐにイエスを救い主だと信じました。おそらく、とても暮らしや病気のことで困っていて、病院にもいけず、相談する人もなかったのでしょう。しかし、そういう苦しんでいる人の救いはイエスは必ずすることができました。このときはイエスの裾にでもすがらせてほしいと願いました。そして、触ったものはすべて癒されたと書かれています。
素晴らしいことです。
世も中には奇跡を起こすようなことがいろいろあります。
たとえば、フランスのルルドの水では難病の人が癒されたりしています。日本でも草津の湯では誰からも直らないと言われた人が病気が治ったりしています。末期癌でどうにもならないといわれた癌など治った奇跡もあります。三浦綾子も病院では直らないと言われた大腸がんを民何のミルクを飲む療法で治したとかいう話もききます。もちろん病院にいって治る方々もいます。
癒しと言うのはキリストだけではなく、さまざまな医療や偶然や信仰などによっても起こります。聖書から考えれると、イエスの癒しは苦しみから救いのような気がしています。イエスは苦しみを癒されます。苦しい病、苦しい生活、苦しい精神状態など苦しみをなくして下さいという祈りにはすぐに答えてくださる方でもあるということが、今日の聖書に書かれています。ただし、人間側の強い気持ちが必要なようです。わらをも掴む思いでイエスにすがると不思議に癒しの救いが起こります。これはお金をたくさん献金するからではありません。なにかよい行いをすることからではありません。「癒してほしい、イエスなら癒せる、」という信仰によることだったと思います。
信仰によって苦しみは癒される。それは素晴らしいことだ。
ある方が、車椅子なんですが、もし、この体を治したら、信者になるよ、といっていました。癒しは信者になるかならないかは関係ありません。そのとき、そのとき、でいいのです。イエスの癒しを信じればよいのです。また、クリスチャンでなくてもいいのです。苦しみから癒されたいと思う人すべてにイエスは奇跡を起こします。
私のことも考えてみても、私はこれまでずいぶん癒されました。仕事も見つかってここでもう10年も暮らせるようになっています。不十分では在りますが、イエスは私十分なくらいに身体を回復させてくださり、喜んで暮らせる生活を与えてくださいました。これを奇跡と言わず、なんと言いましょうか。みなさんも同じ経験をされていることでしょう。また、今後もイエスが共におり、たとえ、病気や事故にあったとしても、苦しみから必ず救い出してくださいます。私たちの死をも自らの十字架の死と復活という大奇跡を通して、私たちに永遠の命を与えてくださり、天国をも用意してくださる方イエスです。私たちの苦しみを放っておくはずがありません。
我々を苦しみから喜びへと変えてくださるイエスは復活し我われと共にいるとイエスも語り、聖書も語っております。救い主イエスが共にいることをいつも覚え、苦しみがあったらイエス様助けて下さい、と祈りましょう、思いましょう、きっと、奇跡は起こり、苦しみから救い出されるでしょう。イエスは素晴らしい愛の神です。苦しみから救って下さいという祈りは必ず必ず叶います。