マタイによる福音書13章1節から9節 さまざまな人たちと共に

種まきのたとえが語られています。わたし達は種からよい実を結びたいと思っているわけです。種はイエス、神の言葉、神の愛でしょう。さて、それを聴いて、あるものは百番、60倍、30倍にもなったとあります。
さて、この「実」とは何でしょうか。前にも出てましたように「よい実」です。「よい実」とは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5章22節)」です。このような実をわたし達は、生きている間に、この世にあっても、多く結ぶことができるということが書かれています。
この世を見渡せば、果たしてそうなのだろうかと思ってしまいます。人殺しや戦争や悲しい事件が多くなるなか、むしろ、ガラテア5章19節から21節にあるような、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものだらけのようで、「よい実」には到底到達できないように思われます。
しかし、聖書ははっきり言う。「ところが、」と言う。「ところが」現実には種はまかれても、道端に落ち、カラスが食べてしまうような現実、これは19節に解説がありますが、「だれでも御国の言葉を聴いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」現実。石だらけの土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために、艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」、「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聴くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで実らないひとである」とあります。現実はそういうふうになっていると思います。
「ところが」とイエスはその現実をくつがえすことを最後に語りる、「良い土地に落ち、実を結んだものを語る。100倍、60倍、30倍と多くの実を結ぶこと」を話す。「よい土地に蒔かれたもの」とは、御言葉を聴いて悟る人です。そうして、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5章22節)」を現すことができるのだと語ります。これらが人にとって行うべきことでありましょう。それには、「御言葉を聴いて悟る」ことによって可能だと語るわけです。
わたし達は、弱い、不信仰なにんげんです。しかし、しかしながら、私たちに、この世において、幸せなときを経験できる恵みが与えられている、よい実を結ぶ恵みが与えられているということを語られているのだと思います。
そして、やがてはすべての人が、イエスの十字架によって、よい実を実らせることができる。「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5章22節)」というよい実をこの世に実らせ、実現できる。こういう希望を与えて下さっています。

わたし達は日々、御言葉を聴き、悟っていくことによって、この地によい実りをもたらすことができるのです。
ひとはさまざまな方がおりますが、み言葉を聴き、悟って、歩むとき、さまざまか方々に対して、共に歩むことが可能になるのではないのでしょうか。わたし達には、道端、石の上、茨の中にいようとも、よい土地もこの世に与えられているのですから、道場のような人、石の上のような人、茨の中にいるような人とも、共に祝福を祈りあいながら、歩むことはできるのでしょう。日々聖書やイエスの十字架から、あるいは人間の示す、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5章22節)」から、御言葉を聴き悟り(イエスの意思、神の意思を悟り)っていきたいと思います。
信仰のあるなし関係梨に、共によい実を結ぶことができるよう、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5章22節)」を実現することができますよう、祈ってまいりましょう。