マタイ12:38-42 ヨナやソロモンに勝るものがある

わたしたちは、いろいろなことに「しるし」を求めます。
このしるしというのは「証拠」「論拠」ということでもありましょう。

私は自治会の庶務をしているんですが、先日、役員会がありまして、駅伝大会があるのですが、そのことで話合いがあったのですが、自治会ではの1組から4組に分かれているんですね。その駅伝大会に、3組、4組が参加していいのかどうかという問題が出てきた。自治会長は「参加していい」と言うのだけれども、役員からは実行委員会に確認をすべきだという。自治会長は「参加していいことになっている」と再三いうのでけれども、役員は信用していない。自治会長のいうことを聞かないで「実行委員会に確認」ということを曲げませんでした。信頼できないと、証拠を出さないといけないのだなあと思いました。

また、リハビリテーションなどでも、論拠に基づいたリハビリテーションをするようにということが特に医療にいおいていわれており、医療の中でも、信用が失われているように思われます。

最近、北朝鮮では核実験を行ったと発表しましたが、それを信じられず、証拠を探しように日本でも動いているようです。

人の世界では、一般的に、証拠や論拠というようなしるしを求めることは当然かもしれません。人はそれだけ、信じられないこと、疑わしいことが多い世の中であると思っているからなのでしょう。

ここでも、律法学者やパリサイ派のユダヤ教宗教指導者がイエスに「しるしを見せてください」と話しました。これは、「救い主、神である証拠」を見せよ、ということです。ユダヤの救い主がナザレのイエスか大工や石切といったような身分の高くないものが救い主か、そんなわけがない、とても信用できない、うそをついているのだろうと疑ってかかったのは無理はないと思います。証拠を出せといわれるのは当然のことだと思います。

しかし、イエスは次のように答えます。
「よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがるが、預言者ヨナのほかにはしるしが与えられない。つまり、ヨナが3日3晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も3日3晩、大地の中にいることになる。」といいます。これは、イエスの十字架の死を意味しています。これが、神である「しるし」であるとイエスは話しているわけです。

ヨナはヘイスラエルの国のブライ人で預言者でした。神のことばがヨナに望んだのですが、ニネベに行って呼びかけよ」と言われるのです。ニネベは当時アッシリアという国の都市。イスラエルの敵国。今の日本で言えば、拉致問題のある北朝鮮。アジアの国からすれば、残虐な侵略をされた日本の国に相当するかもしれません。そこへ、いって、主のことばを述べよといいます。ヨナは預言者でしたから、主が、自分の敵国、ヤウエーの神を信じない国のニネベの人たちを、愛され、救われることを知っていました。ヨナにとっては、溜まったものではなかったようです。あんな人たちは救われなくていい、地獄へ落ちてしまえばいい、主のめぐみなんてしらなくていい、などとおもっていたかもしれません。そこで、ヨナは主のことばから逃亡します。タルシシュということろに行こうと、タルシシュは地中海の西今のスペインにあたるそうです。。ニネベは今のイラクですから、正反対の方へ地中海も挟んで、とにかく、主の指示から逃れようとしたのでした。ヤッファというところから、船賃を払って、船に乗り込みました。ところが、その船が遭難にあいます。預言者ヨナはそれが神が起こしたことだと悟り、海に放り込まれます。ニネベにいって宣教するくらいなら、死んだほうがましだと考えたのかもしれません。彼らの前で、自分の手足を縛って海に放り込むように話すのでした。船の人たちはそんなことはできないと、それを避け、陸に戻ろうとしましたが、無理でした。しかたなく、ヨナのいうとおり、海に放り込みます。しかし、大魚に飲み込まれ、三日三晩魚の中にヨナはいて、陸地に吐き出されました。そして、ニネベに渡って、主のことばを伝えるのでした。「あと、40日すればニネベの町は滅びる」ところがニネベの人たちは、悔い改めます。神は彼らの業、悪から離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いを下すのをやめられたのでした。ヨナはこれを不満に思い、自分を殺してくれと主に願います。しかし、主は、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうまごの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」と語って終わるわけです。敵を愛するというしるしがここでしめされています。この世においての悪にたして悔い改めた場合、災いを下す予定を止められる、主のしるしが示されています。滅びの予定説がここでは通用しない。この世での、滅びへの運命、宿命もここでは変更可能となる、悪い人が悔い改めたならば、主の与える災いを中止する、滅ばされないという神のしるしがここにしめされていると思うわけです。

そして、ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるだろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聴いて悔い改めたからである。ここに、ヨナに勝る者がある。と自分を悔い改めに導いたヨナよりも、イエス自身が、悪い人たちを、悔い改めに導き、神による災いを中止させた、他者を裁くまでに高めることができる者が自分だ、と語られます。

また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるだろう。この女王は、イスラエル王国の繁栄を極めた王ソロモンの知恵を聞くため、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。と語られます。知恵のあるソロモンより知恵をもつのがイエスであるということ。イエスが地の果てから知恵を聴きにくるのに値する者でありと言うことを語られています。 

「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」。これは明らかに、列王記上10章に出て来る「シェバの女王」を指しています。列王記には、「シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやってきた」(1)とあります。初め彼女は、「イスラエルの王ソロモンといっても、どれ程の者か」と、タカを括っていたのではないでしょうか。「ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせた」とあるところからも、この女王が聡明で、プライドも高く、勝ち気な気性のひとだったと察せられます。また、かなり、学問的にもすぐれ、当時は世界でも指折りの知恵の持ち主、それによって、富を得、国を治めると力量、指導力、人を大切にする道徳的、人道的倫理、人格をも兼ね備えた、いわば、人の力でなせる、理想的な人だったのかもしれません。しかし、「ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(3)。彼女は、ここでソロモンに参ってしまいます。そして、「わたしは、ここに来て、自分の目で見るまではそのことを信じてはいませんでした。しかし、…お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。10:9 あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」(7-9)と告白します。

人間的に見て、知識、技術、精神の面で完璧であり、政治、経済、文化、教育、医療、福祉、社会生活などのうえで理想と思われる状態をつくり、それによって人々の暮らしを至福にしようとしている人々にも、とけない、難題がありました。それをシェバの女王がソロモンにぶつけたとき、ことごとく解決できたという。ソロモンに勝るものが、イエスであると語ります。

ヨナによる、悪人が悔い改めて、滅びから救われるという信仰的な奇跡や、ソロモン王によって実現されたような、現実の生活で人間的にみて最高だと思われる社会、国家、環境などより、まさることとは、何なのでしょう。イエスはヨナやソロモンよりまさると言います。それは、イエスの十字架と復活をさしていると思います。それがヨナやソロモンよりも勝る出来事だと語っていると思います。

イエスはなぜ、律法学者やファサイ派の人々の前で目に見えるしるしを示さなかったのでしょう。よこしまな時代にいきている、わたしは、やはり、牧師になっても律法学者のようにしるしを求めているように思います。
私自身、恥ずかしいのですが、イエスは本当に私の救い主かというしるしをもとめているのです。
それは、自分が救われるのか、この苦しみから逃れられるのか、死から本当に復活できるのか、永遠に生きることが、喜びを持って生きることができるのかということの「しるし」が欲しい、知りたいのです。

このような答えと問いはローマ信徒への手紙8章18節以下にも示されていますが、23-25節には、被造物だけではなく、霊の初穂を頂いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体のあがなわれれことを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。目に見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。とあります。「しるし」は目に見えるものです。救いは目に見えない希望によって与えられるものであるとパウロは語っています。
イエスは救いを与えるために、あえて、しるしを示さなかったのかもしれません。

救いのしるしはイエス・キリスト自身にしかないということが示されています。
それは、わたしたちすべてのために、今の命と、死後の復活の命、永遠の命は、すべての生のありようの肯定だとおもうのですが、多様な行き方の肯定、死をもたらさない、滅びをもたらさないあり様といってもいいかもしれmせんが、それは、イエスの十字架と復活でしめされた神の愛によってであるということを31節以下で述べられています。

我々の命はイエス・キリストの十字架と復活にしかない。
しるしは「生」という形で与え続けられているのではないか?
それに、わたし達は気づくことができない。だから、しるしは与えられないのではない。自分勝手に自分の欲望が満たされる形が成功とか幸福とかいうように、人間が勝手に思い込んでいるのだと思います。「目に見える形で、結果が人間の感覚で分かる形で、欲望が実現するしるしを見せてください」と言う、私を含め人間の愚かさ・・・私も「たとえば、集会、教会が守られ、導かれるようにとか、仕事がうまくいきますように、伴侶が与えられますように」などと祈っています。祈りが、そう祈って、もし、かなったなら、イエス様への確信が、高まってしまいます。本日の聖書の箇所を読んでも、じゃあ、ヨナよりもソロモンよりも勝る奇跡や知恵を、信仰的に悔い改める人を増やし、世の難問を解ける知恵を見える形で、自分にとって都合よいように、しるしとして与えてくれとさえと思ったりもするのです。これは、私が「イエス」に「しるし」を求めているのです。

自分自身を省みて、なぜにこうも頑ななのか、あきれている次第です。
今、「生」が与えられているではないか!
今、イエス・キリストの十字架と復活の救いを聖書から聴かされているではないか。
それにもかかわらず、イエスに感動しない、イエスに感謝できない、そういう自分がいるわけです。よこしまな人間、神に背く人間は、パリサイ派や律法学者と同様、自分自身もそういう人であると深く悔い改めたいと思います。

イエスの十字架のゆえに、人は無条件に、救われたことをなかなか信じることができません。一方的に与えられたイエスの十字架によって救われた、ということを理解しようと思っても私には無理です。人間の「生」はなぜあるのか、それが、イエス・キリストの十字架によるということを、証明せよ、といっても私には無理です。しかし、只、信じることによってだけ、聖書の記述からイエスの十字架が我々の罪を贖い、滅びから救ってくださったと信じることによってのみ、信頼することによってのみ、「イエス・キリストの十字架の救い」を受け入れ、ただ、信じたときのみ、もろもろの出来事は、説明はできると思います。
私たちが「生きる」ことができ、かつ、成長でき、仕事ができ、暮らしができ、家族をもつことができ、やむことができ、かつ、死にはするが、復活することができる、などなど、イエスの十字架の救いがあるから可能になっているのだと理解することができると思うのです。しかし、それを認めず、人の行為で、あるいは自然の力で、人が生きているのだという考え方には、限界があり、「生」の理由を説明しきないでしょう。
人間は自分の力で何事もすることが大切で重要で価値があるように思っているのではないのでしょうか。ただ、生きていることについては、むしろ、怠けているとか、無価値な人とか思っていないでしょうか?
人間の大切なことは「生きること」「共に大切にしながら、みんなで」生きることではないでしょうか。それに反していなければ、わたし達は、いまざまな生のありように感謝していいのではないでしょうか?感謝できるのではないのでしょうか?

とくに、私たちが共に生きる以外、私たちに示される神のしるしを見る必要はないと思います。
「しるしを求める時代はよこしまな時代です」邪悪な時代、神に背く時代、愛さない、人を大切にしない、時代です。
ああ、そのような、私と世を憐れんでほしい。

「ここに、ヨナやソロモンにまさるものがある。」信仰的なしるしはヨナによってしめされ、ご利益的しるしはソロモンによって示されていると考えてもよいかもしれません。しかし、そのヨナやソロモンにまさるものがある。信仰的なしるしや現世ご利益的なしるしよりも勝ることを与えることができるものがここにいる、とイエスはそう、語られているのではないでしょうか。
「自分たちのさまざまなあり様の「生」を大切にすること」、これを愛ともいいましょう、それは、私たちが、悔い改めたニネベの方々や遠い他国の女王がその救いや知恵を得たということより、素晴らしいことを期待できるということをこのことばに見出します。

よこしまで神に背くこの私と世であるけれども、むしろ、そうであるからこそ、イエスが共にいて下さる、このときには、決して、愛は滅びない。人を大切にしていき続ける奇跡知恵は続いていくと思うのです。その奇跡はヨナに勝り、その知恵はソロモンに勝る。そして、そのイエスと共にいる我々の喜びは計り知れない、と思うのです。