幸い マタイ11:1-19節

イエスは「私に躓かない者は幸いである」とお話されています。幸いな者とは誰のことでしょうか?とりもなおさず、今日、教会においでになっている皆様のことを幸いだと語っているのだと思います。イエスに躓かない、とは、イエスの十字架の救いを受けることです。イエスに躓くとは、イエスの救いを拒否する、ということであると思います。しかし、イエスの救いは十字架によって成し遂げられました。救いから漏れる人は一人もいない。ならば、イエスに躓く者などいないはずです。

しかし、私たちには、不信仰が伴います。ヨハネと呼ばれる、悔い改めの洗礼を授け、イエスの来ることを預言していた人、イエスからは、女から生まれた者でヨハネより偉大な者はいない、と絶賛されたヨハネでさえ、不信仰に陥った。彼は牢に入れられていました。なぜかと申しますと、領主ヘロデが自分の兄弟の妻ヘロデアと結婚したことについて「、律法で許されていない」と話したからです。正しいことを語ってヨハネは牢に入れられてしまった。ヨハネは本当に救い主はイエスなのか、疑問に思ったのでしょう。弟子たちをイエスに遣わせ、「来るべき人はあなたか、それとも、他の人を待たなければならないか」とお聞きになります。イエスはお答えになります。「行って、見聞きしていることについて話しなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を持っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を告げしらされている。私に躓かない者は幸いである」
イエスはヨハネについて、そうだ、その通りだと答えたのでした。

幸いは私達に与えられている、望んでいる、幸いの中に暮らしているのだと思います。そして、幸いとは、目に見える形であるのではなく、信じることで、与えられていることだと思います。しかし、我々は不信仰のゆえに、与えられている幸いを信じていない。
すでに十字架によって与えられているのに、自分の力づくで奪おうとしてしまったり、している。この不信仰の時代は、「婚礼の笛を吹いているのに踊ってくれなかったり。葬式の歌を歌っているのに悲しんでくれなかったり、するようなことのようだ」。受けるべきそのまま受けるべきなのに、幸いを受けようとしないで、奪い取ろうとしている。ヨハネが聖なる断食すれば、「悪霊に取り付かれている」言い(ヨハネは断食をしていたのに、断食しているといわずに、「悪霊に取り付かれている」といわれる。「悪霊に取り付かれているわけではない」)、イエスが来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪びとの仲間だ」というけれども、イエスはそういう人と「食事をした、慈しまれた」ことをそのままには思っていない。
そういう現実の中でわたし達は暮らして折るのです。幸いがあるのにそれを受けていない、信じていない方々のなかで暮らしているのです。
しかし、知恵の正しさは、その働きによって、示されるとありました。
救いはただただ受けるという知恵の正しさ、幸いはただ受けるだけでよいという、知恵の正しさは、イエスの十字架によって示されているということだと思います。一方的与えられた神の愛、十字架と復活は、私たちにとって、幸いであり、その幸いは、信じることによってのみ、知ることができるのでしょう。

私たちの周りには苦労や苦難が伴います。そういうことは起こることに決まっています。しかし、そのためにわたし達は、注がれている、幸いを忘れてしまったり、気がつくことができなかったり、してしまっているのかもしれません。
確かに生活上、苦しかったり、重荷だったりすることがあるかもしれません。私も、叔母が骨折して入院して、介護保険を利用して、暮らしていかなければならなくなり、こちらの家族も協力しなくてはなりません。母も老いてきて、今後、私がひとりで家を管理しながら、もろもろの家事をしなくてはいけなくなるだろう、跡継ぎのない家をこれからどういうふうに使っていこうかなと、考えてみると、頭が痛くなります。
しかし、そうだからといって、私が幸いでないかと言うと、そうではないと思う。幸いは信じることによって、与えられるように思います。また、信じることの対象の世界です。現実の暮らしと一致しないことです。かけ離れていることです。
しかし、どんなときであおうとも、それは信じることによって、幸いがすでに与えられているということに気づかされ、感謝の気持ちが湧き上がってくるように思われます。

十字架のイエスによって、私たちの幸いは一方的に、すでに与えられたという信仰に立つとき、苦しみのある暮らしでも、それを担い、しかし、感謝と喜びを感じることができると思います。