マタイ10:40-42 受け入れる人の報い
ここでイエスは弟子たちに、話しています。
「あなたがたを受け入れれる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを使わされた方を受け入れるのである。」と語ります。
弟子を受け入れる、これは、弟子と友のような関係になるということを示していると思います。そういう人はイエス基督を受け入れ、神を受け入れる人だといいます。つまり、信仰者であるということを話します。イエスを救い主、と信じる者を大切にする人は、信仰者と同様だと語ります。
「そして、預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる者は、正しい者と同じ報いを受ける」と語られます。
ここでは、預言者とは神のことばをいう人、取り次ぐ人のことでしょう。牧師や神父もそうでしょう。それから、牧師や神父でなくとも、人を大切にすること、愛すること、「生」を強化してくださるようなことを、そのとき、その場に応じて語ってくださる人もそうでしょう。
正しい人とは、乳飲み子のような人(ルカ18:15 マタイ19:13など)をいうと思うのですが、そういう人を正しい者と受け入れる人は正しい人と同様の報いを受けると語ります。「報い」というのはどういう意味でしょうか。喜びや感謝や平安、平和だと思うのです。それはどうしてかと申しますと、おそらく、天国へいくということと、永遠に生きるものとされるということであるということだと思うことだからです。「報い」についてはマタイによる福音書から考えますと、あとから、出てきます、さまざまなたとえ話から考えることができます。たとえば、25章の10人のおとめのたとえでは、ご主人様と一緒になれる喜びを「報い」とされているようですし(ここでは、受け入れない場合の逆のことが強調されていますが、逆を返せば、受け入れた場合の恵みについて書かれていると思います。タラントンのたとえも同様に、ご主人様から認められる喜びが記されています。つぎの羊飼いが子羊と山羊を分けることのたとえでもそうです。報いとは神から認められる喜びや感謝、を意味し、永遠の命を得ることを意味しているのでしょう。この永遠の命というのが分かりににくいので、たとえを用いて語ったのだと思います。
そして、最後に
「はっきり言っておく。わたしの弟子という理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とあります。
人を大切にすること、人を愛することの報いは必ずあるとイエスは語っています。
これは、人を大切にしていったとき天国へいけるということでしょうか?
いいえ、違うと思います。神の国はイエスの十字架によって、愛せない人のために、すでに与えられています。
では、何を報酬としてイエスは我々に与えるというのでしょうか?それは地上での天国ではないでしょうか。人は自分の行いによって、生きているときに報いを受ける。自分が弱気、小さき人のために、十字架を負い、大切にしていったときに、地上で平和や喜びや感謝を体験できるとイエスは語っているように思います。そしてまた、イエスは子どもや病人や障碍者、弱い人や罪びとと共に暮らし、癒されたり、慰めたり、罪を赦したりされ続けられました。
私たちも、
たとえば、病気の人を見舞った喜びは誰にでもあるでしょう。そのときの平和や感謝、平安が生まれているように思います。もしかしたら、地上での天国かもしれません。
わたしは地上でも天国を味わいたいと思います。
それには小さき者を大切にするという神の愛を人を通して与えていくことが条件となるようです。ぜひ、小さき者を大切にしていきたいものです。
この小さき者を受け入れるということは、実はとても難しいことです。釜が埼の貧しい人々と共に暮らそうと思った本田哲郎というカトリックの神父がおりました。自分が仲良くなったと思って、おい、おまえと声はかけるもののどうも、相手には隔てがある。相手の立場に立とうと思っていたが、そうすることは、無理だと悟ったといいます。そして、思ったことは、相手の下に立つ、ということでした。下にたってあなたの立場を教えて下さい、という学ぶ、ということだったそうです。栄吾で理解することをアンダースタンドといいますね。相手を知ろう、理解しよう、受け入れようとするときには、その人の下に立って、学ぶということが、ひとつの方法としてあることに気づかされました。
私は小さい者を受け入れようとするとき、その人の下に立とうとはせず、上から情けや憐れみをかけていた、生意気な者でした。受け入れられていたのは私のほうであったのです。相手を受け入れる、小さき者を受け入れるということは、小さき者の下に立ち、その人から学ぶという姿勢が必要だと思わされました。
こうした意味で、私は小さき者を受け入れ、
そして、少しでもこの世に平和や喜びや感謝が、報いとして与えられますように、祈る者です。