人々を恐れるな
イエスは恐れるな、と言います。どうして、人々を恐れるなというのでしょうか。
イエスの弟子になると、どうして人々を恐れなければならないのでしょうか。
この人々とはどういう人のことなのでしょうか?
迫害する者を恐れてはならないということではないでしょうか。
人にとって最も大切なことは、自分を愛するように隣人を愛することである。人を大切にすることである。とあります。しかし、人を大切にしていっても、どうすることが人を大切にすることなのか悩むことがあります。いろいろ問題が起こり、暗闇が覆いどうしたらよいか分からないこともあります。その暗闇でイエスが言うこととはなんでしょうか。十字架上でイエスが話すことはなんでしょうか。許しであり、隣人を愛することであり、苦しんでいる方を思いやることです。迫害する者のために祝福を祈ることです。すべてを主に委ねることです。罪を悔い改めることです。
体を殺しても魂を殺すことのできない人間を恐れるなと語られます。
主を信じる者を、愛そうとする者を、無価値だ、役立たずだという人たちを恐れるな、と話されます。
2羽の雀が1アサリオンで売られている時代でした。1アサリオンは1デナリの16分の1で500円くらいでしょうか。そういう雀でさえ、神の支配にあり、だが、その1羽さえ、父の許しがなければ、地に落ちることはない。とイエスは語られます。神は私たちの髪の毛1本残らず数えられている。すみからすみまでご存知である。と話されます。
そして、恐れるな、あなたがたはたくさんの雀よりもはるかに勝っている。と語ってくださっています。雀よりはるかに勝っているとは何においてでしょうか。
それは、主イエスに従う生き方をすることにおいてだと思います。
愛し合う暮らしを築いていくことにおいてだと思います。
人の罪を赦していくことにおいてだと思います。
悔い改めていくことにおいてだと思います。
私たちは何故、悩むのでしょうか。何故、苦しむのでしょうか。それは、人を愛したり、大切にできないことで苦しむのではないでしょうか。
愛することができない、人を大切にすることができない、力になることができない、罪を犯してしまう、この悲しむべき姿を私は苦しみます。雀以下ではないかと思う自分自身を苦しみを覚えます。そして、自分自身を恐れていると思います。
神イエスを十字架につけた私自身、これほど恐ろしい存在はないのではないでしょうか。
イエスは、ここで、人々を恐れてはいけないと語ります。人々とは自分自身を含むすべての人のことをいうのでしょう。
しかし、恐れてはいけない、恐れるな、と何度も語っています。
そして、恐ろしいと私自身が思ってる、自分、他人について、あなたがたはたくさんの雀よりも勝っていると語ってくださいます。
なぜか・・・
それは、愛することにおいて勝っているのであって、人を大切にすることにおいて勝っているのであって、罪を悔い改めることにおいて勝っているのであって、平和を築くことにおいて勝っているということを、話されているのだと思います。
わたし達は、イエスの教えを守っていくにはとても弱いものです。しかし、その弱いところにイエスの力が働いて下さることを信じています。そして、私たちがどのような状況にあろうとも人を愛していくこと、大切にしていくこと、悔い改めていくこと、平和を実現していくことが、イエスの十字架の購いと復活の力に秘められていることを信じて生きたいと思います。
祈ります。